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第25回:未来の仲間へとつなぐ、主体的な『気づき』の育成

第25回:未来の仲間へとつなぐ、主体的な『気づき』の育成

2024.12.12浅川 翔子(東京慈恵会医科大学医学部看護学科 講師)

祖母の影響で看護の道へ

 私が看護の道を目指した背景には、看護師として働いていた祖母の影響が大きい。仕事や妹の世話で忙しい母に代わり、祖母は幼い私の面倒をよくみてくれていた。祖母はいつも「いたいの、いたいの、とんでけー」と、痛いところに手を当てて、さすってくれた。”手当て”をしてもらうと不思議と痛みが和らぎ、私はそれを魔法の手だと信じていた。祖母は戦時中の空襲を乗り越えながら看護の勉強を続け、祖父の死後は看護師として働きながら3人の子供を育て上げたという。祖母は私に、「看護の力とは、人を支えることができる強さと優しさ」であると教えてくれた。今も昔も、祖母の凛とした芯の強さは、私が看護師として、そして教育者として目指す姿であり、原動力である。

「教える」という意味の再発見

 看護師になって4年目、病院内での研究活動に参加し、「よりよい看護」を追究していくことの面白さを体感した。その頃はちょうど、看護師の仕事に悩んでいた時期でもあった。新人指導や日々の業務にどれだけ一生懸命に取り組んでも、なぜか「空回りしているんじゃないか」と感じることが増えていたのだ。そんなモヤモヤを抱え、思い切って大学時代の恩師に相談に行った。その先生から「教育や研究を通じて、もっと多くの患者さんによい看護を届けられるかもしれないよ」と、アドバイスをもらった私は、大学院に進学し教員の道を歩む決意を固めた。進路に悩み立ち止まることもあるが、そのときはいつも恩師のこの言葉を思い出している。

◎教員としての魅力とは

 教育の魅力に気づいたのは、学生がまだ芽吹いたばかりの若葉のような存在だと感じたときからである。学生たちの成長には無限の可能性が秘められており、教育者が提供する学びの場で、新たな価値観を吸収し、自由に成長していく姿を見守る瞬間には、教育の醍醐味を感じた。しかし、それは教育者になって初めから気づいていたことではなかった。
 「教育者ってどういう存在だろう?」とわからないまま教員としてのキャリアを始めた頃、私は限られた実習時間の中で「あれもこれも教えなくてはならない」と焦り、指導に必死であった。なかでも、Aさんという学生は、学びを深められず、実習中も患者に積極的にかかわろうとしない印象であり、その対応には苦慮した。苛立ちを覚える私に、ある日上司が「何か一つでも学んでくれて、看護って楽しいと思ってくれたらいいじゃないの」と声をかけてくれた。
 実は、Aさんが担当した患者さんは、リハビリに対して意欲的になれず、他の学生が患者さんと一緒に歩く場面が見られるなか、Aさんの患者さんは歩こうとしていなかった。Aさんは「たくさん指導内容を考えて伝えたのに、患者さんは動く気がないんです」と、困惑していたのだ。学習者のニーズや興味への考慮が不足する姿は、それまでの自分と重なった。それは、学生の力を信じず、一方的な教育を押し付けていた自分の姿である。
 「教育って、それでいいの?」——私は教育とは、持てる知識を学生に惜しみなく提供することだと思っていた。そんな私に対して、上司のその言葉は、学生を信じて自ら考えさせるという新たな視点を突きつけ、「そういう考え方もあるのか」と驚かされた。その瞬間、肩の力が少し抜けた私は、Aさんに「何か一つでも、患者さんがしたいと思えることを見つけてみたらどうだろう」とそっと提案してみた。

学生自身の「気づく」を助ける

 すると翌日、受け持ち患者さんと一緒に廊下を歩くAさんの姿があった。「先生、患者さんと一緒に“やりたいこと”を見つけたんです。患者さんが自分から“やってみたい”と思えることを一緒に見つけることが大切なんですね」と、それまでの不安そうな表情とはまるで別人のように、Aさんは目を輝かせて語り、実習記録も自ら進んで見せてくるようになった。
 教えるとは、学習者自身が「気づく」きっかけを作ることなのだと気づかされた。こうして、学生とともに成長しながら、私自身も「教える」という意味を再発見していったのである。

看護教育の重要性を再認識した瞬間

 教育者としての道を歩むなかで、私が看護教育の重要性を再認識した出来事がある。先に述べた祖母が入所していたグループホームから肺炎のため、病院へ緊急入院したときのことだ。病院のベッドに横たわる祖母を見舞ったとき、そこで受けていた看護ケアは、私がこれまで知っていた治療や看護ケアとはまったく異なっていた。医療者からは回復を諦められ、動けないにもかかわらず抑制帯が使用されていた。私は、ただ衰弱していく祖母の姿を見るのが非常に心苦しく、心が締め付けられる思いだった。
 そのとき、私は実感した。看護師がどのような教育を受けたかによって、その場での看護の「常識」は大きく異なるのである。このことが胸に強く響き、看護教育の強化がいかに重要であるかを強く痛感した。この経験を通じて、教育者としての使命を強く意識するようになった。

◎コミュニケーションが苦手と語った学生との出会い

 Bさんとの出会いも忘れ難い。コミュニケーションが苦手だと語っていたBさんだったが、ある日、治療に影響する重要な情報を患者から引き出すことができたのだ。その患者は繰り返される原因不明の低血糖症状から食欲不振が生じ、低血糖の悪循環に陥っていた。医療者たちは、腑に落ちないまま「原疾患によるもの」として半ば諦め、見過ごしていたのである。しかし、Bさんは違った。根気強く患者に寄り添い、ただ情報を得ようとするのではなく、患者の心の奥深くにある思いを理解しようとし努めたのだ。
 Bさんの「何か自分にもできないか」という想いで、カルテから低血糖症状のパターンを調べ、患者との会話を重ねるうちに、ある事実が見えてきた。それは、実際には患者が食事に伴う苦痛を避けるために「意図的」に食事を避けていた、ということだった。Bさんは、患者が抱える「苦痛」に共感し、その回復を信じて自分に何ができるかを問い続けた。その結果、患者の回復への第一歩をもたらしたのである。

若葉のような学生を芽吹かせる教育者でありたい

 一時は別れを覚悟した祖母も、先日ありがたいことに白寿を迎えた。病院を半ば強引に退院したにもかかわらず、もともと入所していたグループホームに戻ったところ、施設の職員の方々の協力と懸命なケアにより、元気を取り戻してくれたのだ。祖母の回復を信じて介護職員の方々が介護にあたってくれた結果であった。今では立つことも、大好きなチョコレートを食べることもできている。
 あるとき「先生とは、学生よりも少し先に生まれた、学生よりも少し先を歩く道標のようなもの」と、上司に言われた。「一緒に成長をしていく仲間」なのだと教えてくれた。単なる知識や技術の正解を教えるのではなく、未来の仲間として学生と共に歩んでいく存在なのだと。これからもたくさんの「気づき」を、若葉のような未来の仲間たちと分かち合いながら、新しい可能性を芽吹かせる教育者であり続けたい。

浅川 翔子

東京慈恵会医科大学医学部看護学科 講師

あさかわ・しょうこ/慶應義塾大学看護医療学部卒業後、同大学病院に入職。集中治療室と救急外来で勤務する。聖路加国際大学大学院修士課程を経て、国際医療福祉大学看護学部に助教として入職。慶應義塾大学看護医療学部助教、同大学大学院健康マネジメント研究科博士課程を修了し、2024年4月より現職。趣味はランニングと餃子作り。

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