こんにちは。ここ数回、博士課程時代のお話をしています。あの頃の自分を思い返し、綴りながら、つくづく博士課程は試練の時であり、だからこそ尊いと感じます。私だけでなく、研究者としての素地は博士課程で養われたと確信する方は多いことでしょう。
今まさにこの試練の渦中にあるという方にエールを心から送りたい。人の振り見て我が振り直せ。そう願って、今回も私の失敗談を続けます。
木村素衛の哲学的表現論との出会い
前回の連載では、博士課程2年次最後の研究進捗報告会で指導教員から、データ収集方法と分析方法を見直してデータを一から取り直すように言い渡され、ショックを受けて三日間泣き続けた後、私の研究に欠けているのは研究の理論的基盤と研究方法論だと突如気づいたことまでお伝えしました。
時は2月、雪がちらつく寒い日でした。理論的基盤になる哲学や理論を探すため、都内の本屋をさまよい歩いていたところ、当時渋谷にあった古い書店で、ある本の背表紙が目に飛び込んできました。『表現愛』1)と題されたその本を開くと、冒頭に次のような文が記されていました。
表現と云うとき、この書に於ては私はそれを広い意味に理解している。単に内的生命の身体に於ける直接の発動や或いは現表に限らず、また作り現わされたものとしての様々な制作物や所産に限らず、これらを含み入れて更に一層具体的包括的に、凡そ何ものかを作り現わすことに於てみずからの存在を具体的に維持して行くような生命のはたらきを、表現として理解しているのである。(中略)人間はみずからを形成的に表現しつつこのことを自覚している存在である。
読んだ瞬間、私が探していたものはこれだ! と思いました。この文章は、私が看護のアートの成立基盤として位置付ける表現の哲学的意味であり、私が研究を通して捉えるべき看護現象の定義を示すものだ。そう直観して、興奮しながら急いで自宅に戻り、隅々まで舐めるように読みました。すると、この本の著者である木村素衛(きむら・もともり)は、哲学者・西田幾多郎(にしだ・きたろう)の門弟であり、西田哲学の影響を強く受けていることがわかりました。そこで、木村の表現論に関連する西田幾多郎の哲学書も数冊追加購入し、西田・木村の哲学的表現論の骨子を学ぶことにしました。
研究目的(+主要概念の明確化)→研究方法論→研究方法
西田・木村は、表現というものを、私たちの日常生活で見出される言葉や仕草はもとより、芸術作品や科学的な言説、社会の習慣や制度など、およそ人間が意識的に作り現す全てのものを含めて考察していました。そして、表現を、自分の感情や考えを相手に伝える手段であるだけでなく、相手と共に何かを作り現すことによってお互いの存在や関係を維持したり発展させたりするものとして捉えていました。
このような捉え方を踏まえると、本研究で明らかにするのは、表現を介した看護者と対象者との関係性から生み出される看護のアートの本質的特徴であることが見えてきます。つまり、表現そのものと、表現によって作り出され変化し続ける関係性の両方を、データとして収集しなければならないということです。関係性の変容は、表現を生み出す者の言葉や表情などを介して客観的に捉えられるだけでなく、表現者がその関係性をどう意味付けているかという認識面から主観的に捉えられることもあるでしょう。前者は主に参与観察法で捉えることは可能ですが、後者を捉えるためには看護者や対象者へのインタビューが欠かせません。こうして、ようやく私は、自分の研究で何をデータとするべきで、それをどのように収集したり分析したりするべきかが見えてきました。
考えてみると、何を明らかにしたいかがわかっていないのに、それをデータとして集めることも分析することもできないはずです。鍵となるのは、研究目的における主要概念である「表現」の定義と、その定義の裏付けとなる理論的基盤でした。主要概念が定義できると、その概念をどのような方法で明らかにするのかを考えることができます。これを論じたものが研究方法論です。
この出来事を通して、私は、研究の遂行には研究方法論がいかに重要であるかを思い知りました。研究方法論がなければ研究方法が定まらず、的外れの方法でデータを収集したり分析したりすることになりかねません。また、研究方法論は研究目的から導き出されるものであり、研究目的を提示する際にはその研究の主要概念の定義化が欠かせないことも学びました。
私の失敗は、研究目的に含まれる主要概念である「看護のアートにおける表現」の意味を吟味せず、研究方法論を検討しないまま、研究方法を決めてしまっていたことに起因します。そのために、半年間、私の研究に参加・協力してくださった皆様のご厚意やご協力を無駄にしてしまいました。本当に申し訳なく、私はこれからも悔恨の念を持ち続けます。私が今も看護研究の授業や講演などで「研究目的→研究方法論→研究方法」の連関の重要性を強調するのは、このような失敗が背景にあるためです。
看護の科学と哲学、そして看護理論
こうした失敗を重ねながら、博士課程では看護研究に関する重要な事柄を、身をもって学びました。そして、その学びを通して、看護のアートとサイエンスはどのような関係にあるか、看護科学と看護哲学にはどのような関係があるか、看護理論は看護の実践や研究にとってどのような役割があるかなど、たくさんのことを知り、考えました。現在も大学院などで看護科学論や看護哲学、看護理論についてお話しすることができるのは、博士課程時代の苦い体験のおかげなのです。
学問は、順序立ててお行儀よく修めることができるような生ぬるいものではありません。轟音を立てて押し寄せる土砂のごとく、概念の洪水に揉みくちゃにされながら、看護の先達が私たちに語り継ごうとした言葉の数々を、現在の私たちの地平でどうにかこうにか理解する。それは、泥臭くて格好の悪い解釈のプロセスです。しかし、その先には、理解の幅と深さが拡がり新しい考えが創出される、エキサイティングな可能性が常に開かれているのです。
引用文献
1)木村素衛 (1939)/小林恭 (編・解説):表現愛,p.8,こぶし文庫,1997