前回までの計3回にわたってオベリスクをめぐる世界旅行を繰り広げてきましたが、今回は世界を股にかけて大活躍した偉業にふさわしい、壮大なおとむらいで送られた日本人についてのお話です。えっ、投打の二刀流で次々に記録を塗り替えている某メジャーリーガー? 世界中で愛されている作品を制作し続けてきた某アニメ監督? いえいえ、たしかにお二人とも世界的に活躍されている日本人ですが、そんな最近の人物ではありません。そもそも未だご存命で大活躍中ですから、そんな不謹慎なことを書くわけが……!
博多っ子、世界に羽ばたく
時は明治維新の直前にあたる文久4(1864)年。博多の商家に生まれついたその男性は、文明開化の明治時代に一世を風靡した役者となりました。とは言え、その生涯はあまりにもハチャメチャであったが故に、当時の人びとから愛情を込めて「大ボラ吹き」だの「ヤマ師」だのと呼ばれることもしばしば。「“波瀾万丈”などというありきたりの言葉では言いつくせない、冒険活劇のような、あるいはマンガのような」1)人生は現在でも語り継がれ、大河ドラマ2)の題材にもなっています。
彼の名は、川上音二郎(1864-1911)。以前のコラムでも明治時代の人物やおとむらいについては折に触れて紹介してきましたが、そんな破天荒で愉快痛快な時代を象徴するお方です。何しろ14歳の時に、ほぼ無一文で博多港から大阪行きの汽船に潜り込んで家出。野宿を繰り返しながら東京にたどりつき、本堂に供えてあったお膳を勝手に食べていたのが縁で増上寺3)の小僧に。しばらくそこで過ごすうちに、増上寺の境内に毎朝犬を連れて散歩に来ていた福澤諭吉に気に入られ慶應義塾の小間使い4)として雇われました。その後もいくつかの職を転々として博多にようやく戻った頃には18歳。もう家出というか、出奔? それとも失踪?
しかしこれでも序の口で、数々のエピソードに事欠きません。とりわけ音二郎が演じたオッペケペー節は、当時知らない者はいないと言われるほどの大ブームを巻き起こしました。ワタクシの知る限り、このオッペケペー節の大流行は歴史上の出来事として中学校や高校の教科書にもしばしば登場しますから、おそらく読者の皆さんのなかにもご存知の方は多いことでしょう。
実はこのオッペケペー節、日本最古どころか世界最古のラップにして、おエラい方々に真正面からバトルを挑んでいる超攻撃的なプロテスト・ソングと以前から言われているのですYo! それは絶妙なリズムとライム(韻)に加えて、出だしが「権利幸福嫌いな人に、自由湯6)をば飲ましたい」という文句から始まっているように、この歌が当時の自由民権運動を背景にして国民の不満を歌い上げているから。「うわべの飾りはよいけれど/政治の思想が欠乏だ/天地の真理がわからない/心に自由の種をまけ」と畳みかけるような言葉も、そのまま現代で通用しそうなパンチライン(決め言葉)ではないでしょうか。
そしてオッペケペー節の大ブームを起爆剤として、音二郎は明治時代の自由民権運動と密接に結びついていた7)壮士芝居や書生芝居と呼ばれる演劇でも大々的な人気を得ました。これらはその後、歌舞伎などの伝統芸能に対する新しい演劇という意味合いで「新派」と呼ばれるようになり、演劇学や近世文学を専門とする名城大学外国語学部名誉教授の岩井眞實(まさみ)氏は「川上音二郎は、歌舞伎俳優以外の出身者による新しい演劇を創出したパイオニアである。また翻案のかたちであれ、西洋を日本に紹介したのも川上だった。断片的に西洋戯曲を翻訳したり上演したりする例はあるが、これだけまとまったかたちで翻案上演を続けた人はいない。インテリから見て履き違えだろうと何だろうと、その圧倒的な質量は誰もが認めざるを得ない」7)と音二郎の業績を評しています。このように音二郎は役者だけでなく脚本家やプロデューサーとしても大いに才能を発揮し、名実ともに芸能分野における文明開化のトップランナーでした。また、現在では海外で脚光を浴びた作品を日本で上演するというのは当たり前になっていますが、音二郎はその道を切り拓いた先駆者でもあったわけですね。
あ、言っておきますけど、冒頭に「世界を股にかけて大活躍」と述べたのは、上述のよう海外のトレンドを積極的に導入して演劇界に新たな風を吹き込んだから……ではありません。もちろん、それも後世に大きな影響を及ぼした偉業なのですが、なんと音二郎は一般の人びとにとって海外旅行など無縁であった明治時代に、一座を率いて欧米各国で何度も公演を行いました。とりわけ明治33(1900)年に開催されたパリ万博では大好評を博してその名を轟かせます。まあ、どちらかと言えば観客の多くは、一座の看板女優であり、かつ音二郎の妻である貞奴(さだやっこ)8)を一目見ようと押し寄せたとは言えますが、その大盛況ぶりは、先ほどの岩井氏が「一座の人気は特に貞奴に集中していた。彼女はまさに生きた浮世絵だったのである。彫刻家のオーギュスト・ロダンや小説家のアンドレ・ジッドなど、一級の文化人が貞奴を絶賛し、19歳の貧乏画家であったピカソはその姿を素描に残した。新モード『ヤッコ・ドレス』や香水『ヤッコ』の発売など、その人気は社会現象にまでなる。最初は1週間だった契約は大人気のため更新され、興行は(7月4日の公演初日から)11月3日の万博閉会まで続けられた」9)と述べているほど。こんな一大イベントを海外で成功させた日本人なんて、令和の現在に至るまで音二郎ただ一人ではないでしょうか。
驚天動地の大葬列
さて、本当は音二郎をめぐる度肝を抜くようなエピソードをもっと紹介したいところですが、このコラムは偉人伝ではありませんので、そろそろおとむらいの話に移りましょう。
時は明治44(1911)年。音二郎は48歳となり、彼の名声はさらに盤石なものとなっていました。しかし、その頃には以前から抱えていた持病の腹膜炎が悪化していたのです。それでも病を押して、帝国座10)でイプセン原作の戯曲『人民の敵』の上演に漕ぎつけます。ところが、開演の翌日にとうとう立つこともできなくなって、興行は中止を余儀なくされてしまいました。その後、帝国座の近辺にあった病院で手術を受けたものの、8日間も昏睡状態が続き、ついに息を引き取ることに。その最期は、次のような光景でした。
去る(11月)4日より昏睡状態に陥り、9日は既に最後なりと宣告されたる川上音二郎は、11日午前3時となりては最早間もなき事と見たるより、連日連夜の看護に面やせたる貞奴は、人々に迚(とて)も助かるまじければ、せめて最後の舞台なる帝国座にて息を引き取らしめたしとの事に、午前5時より山本嘉一を始め門下の誰々前後を擁して、北浜帝国座の舞台に蓐(しとね)を設けて、安らかに横たへ(後略)11)
「役者ならば舞台の上で死ねたら本望」なんていう言葉を耳にすることもありますが、音二郎はまさにそのドラマチックな人生を地で行くかのように、舞台の上で貞奴をはじめとする一同に見送られながら旅立つこととなったのです。これだけでも、もう芝居の一幕と言えるのではないでしょうか。
さらに、この一世一代の芝居にはさらに続きがあります。ここまでくれば「あ、そう言えば!」と思い出してくれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。ササっと軽く触れただけではありましたが、川上音二郎はすでに第23回のコラムで、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などと並ぶ「ケタ外れのおとむらい」の一例として登場していましたよね。その時は写真を載せていませんでしたが、以下を見ていただければ、まさしくケタ外れとしか言いようがない……ということがお分かりいただけるはずです。
上述の帝国座から現在の天王寺区にある一心寺まで、大阪のド真ん中を縦断する目抜き通りを長々とした葬列が練り歩くわけですから、それはもう壮観だったことでしょう。ただし音二郎の葬列が行われたのは御堂筋ではなく、その脇にある東横堀筋を通って日本橋筋に至るルートでした。大阪にお住まいの方はおそらくイメージが湧くと思いますが、阪神タイガースの優勝パレードをはじめとして、大阪で何らかの大きな行列が実施される場合は、南北を貫く大動脈とも言える御堂筋で行われることが多いですよね。しかし、御堂筋が現在のような広々とした道幅に拡張されたのは大正時代に入ってからのことで、それまではむしろ人通りの少ない路地であったと言われています。まあ、いずれにしても音二郎の葬列が当時の目抜き通りで大々的に行われたということには違いありません。
しかも、その葬列の長さたるや10町とも20町とも伝えられており、おそらく誰もが正確に測ることなどできなかったのでしょう。ちなみに現在の単位に換算すると1町は109mですから、なんとその長さは1~2km! 先ほどの岩崎弥太郎をはじめ、特に明治期の都市部では、このような大規模な葬儀も珍しくはありませんでしたが、やはりこの長さは圧倒的。費用12)の規模はさておき、葬列を組んで練り歩く長さと、その葬列に集まった人数に関しては、少なくとも近代以降の葬列としては空前絶後のスケールと言っても過言ではないはずです。というのも、先ほど「一世一代の芝居」なんて書いたように、この葬列はまさしく大阪という街を巨大なステージにした最高の「見世物」に他ならなかったから。
大阪の葬儀方法もすつかり變って、以前のように長々しい途中行列は全々見られなくなり、時間的に短縮されてきた、私の覺えてゐる葬式で尤も列の長かつたのは川上音二郎が明治四十四年十一月に歿して、北濱の帝國座から出棺、西國橋を渡つて東横堀筋を眞直に湊町へ出て、道頓堀を通り、日本橋筋を南へ一心寺に到着、盛大な葬儀を執行した、會葬者は東京よりも多數來阪、劇界、花柳界、實業家無量千五百、この行列の長さ凡十町ばかり、花車あり放鳥籠あり、送葬者には新舊の俳優を網羅したが、會葬者の殆どは何れも湊町あたりまでか又日本橋まで葬列に加はり街を練って行ったことを憶ひ出す、當時市電は梅田、惠比須町間を往復してゐたくらいであった、この葬儀の派手で賑やかなりし事は恐らく最後であつたであらう、その後新聞廣告などにも途中葬列を廢し、又は供花放鳥謝絶などの文字を散見するようになつた。13)
上述の引用も第23回のコラムで一部を抜粋していますが、今回は全文を載せてみました。これは、大阪および近畿地方の風俗、歴史、郷土芸能などを仔細にわたって論じ、昭和6(1931)年から終戦直前の昭和19(1944)年まで出版された『上方』という雑誌で掲載された、言わばショートコラム的な文章。要するに昭和初期から明治をふりかえって、「あんな華々しくて壮大な葬儀なんて、もうすっかり消え去ってしまったなあ」と述べているわけです。現在の私たちが「令和のおとむらいは、平成や昭和に比べて小ぢんまりとしているなあ」なんて言っているようなものですが、そもそも音二郎の葬儀の「派手で賑やかなりし事」と比べたら、どんな時代だって太刀打ちできるはずがありません。
何しろ、単に葬列が長いだけではなく「會葬者は東京よりも多數來阪、劇界、花柳界、實業家」と上述にあるように、当時人気を博していた新派の俳優が、大阪は言うに及ばず東京からもほぼ一人残らず駆けつけて勢ぞろい。そこに歌舞伎や文楽などの伝統芸能で活躍していた名優たちも加わり、果ては花街の芸妓さんたちまで大挙して連なったとあれば、当時の人びとにとっては芸能界のオールスターが揃い踏みした、豪華極まりない舞台をタダで見ることができる最高の「見世物」に他ならなかったんですよ。
ただし、人びとの視線を最も集めていたのは、もしかすると貞奴であったのかもしれません。何しろ、並みいるスターたちを凌ぐ人気を誇っていましたし、少し不謹慎ではありますが、「夫に先立たれた悲劇の女優」を一目見ようという野次馬根性でやってきた面々も少なからずいたことでしょう。そして当の貞奴はと言えば、悲嘆と憔悴が募って葬列の途中で「卒倒し、近くの旅館にかつぎ込まれたが、応急手当てののち、気丈にも再び葬列に加わった。後日、新聞各紙は『貞奴悲嘆の余り卒倒』『貞奴葬送中卒倒す』などと報じた」14)という状況で、沿道をギッシリと埋めた人びとは、そんな華々しさと悲しさが入り混じった光景を目の当たりにして、後々まで音二郎のおとむらいを語り伝えたのでした。
さて、大阪での葬儀を終えた翌日。音二郎の亡骸は列車を一両借り切って博多まで運ばれ、生まれ故郷でも盛大な葬儀が行われました。博多の旧市街にある承天寺に建てられた大きな墓石が、今も彼の偉業を伝えています15)。先述の岩井氏は「博多行きは、最後に故郷の地を踏みたいという川上の意思であるような気がしてならない」16)と述べていますが、あのオッペケペー節で「心に自由の種をまけ」と豪快に歌い上げ、博多から海をまたいで世界に羽ばたいた音二郎の心の拠りどころは、その自由奔放な精神を育んだ懐かしい故郷にあったのかもしれませんね。
2)春の波涛.原作:杉本苑子『冥府回廊』『マダム貞奴』, 出演:松坂慶子(貞奴=川上貞), 中村雅俊(川上音二郎), 風間杜夫(福澤桃介)他, 日本放送協会, 1985.ちなみに主人公として焦点が当てられているのは、音二郎の妻である貞奴のほうです。
3)東京・芝にある浄土宗の大本山。徳川家の菩提寺としても有名ですね。
4)その慶應義塾も、寄宿舎の門限に遅れてしまった学生たちからお金をもらって門を開けていたことがバレて、追い出されてしまいました。
5)ジャズや民族音楽など幅広い音楽のジャンルに取り組んでいるアーティストで、明治・大正の音楽芸能についても詳しいことで知られています。
6)この自由湯(じゆうとう)という言葉は、自由民権運動を主導した板垣退助によって1881(明治14)年に結成された「自由党」に引っかけており、要するに「自由民権運動によって国民を権利や自由といった意識に目覚めさせたい」と言っているわけです。そして、自由民権運動と言えば、板垣退助と並んでその立役者の一人であった中江兆民が第18回と第19回にも登場しましたよね! 兆民と音二郎に直接的なつながりがあったかどうかについては諸説あるのですが、兆民の没後に記念碑の建立が計画されたとき、音二郎が寄附に応じたという事実が明らかになっていますから、それなりの関係はあったのではないかと推測されます(毛利三彌:イプセン以前 明治期の演劇近代化をめぐる問題(2), 美學美術史論集[成城大学大学院文学研究科紀要], Vol.7, p13-18, 1988)。ただ、「この時期、(自由)民権運動はうなぎ上りの勢いで純理論的な民主的政治運動というよりは、国粋主義的な、どちらかと言えば幕末の攘夷思想と通ずる反逆気分で、西洋から輸入された観念を振りかざした一種の反政府運動であった」(松永伍一:川上音二郎 近代劇・破天荒な夜明け,p.35,朝日新聞社,1988)ことも事実で、このオッペケペー節の流行も政治的な思想とは切り離して考えるべきだという見方もあります。
7)上掲1, p.236
8)上掲2に挙げた大河ドラマもそうですが、もしかするとドラマ、小説、映画などでは、音二郎よりも貞奴のほうが脚光を浴びることが多いかもしれません。東京の芝で明治4(1871)年に生まれたチャキチャキの江戸っ子である彼女は、その美貌だけでなく芸の才能にも長けていて、あの伊藤博文をはじめとして政財界の大物たちが贔屓(ひいき)にする芸妓でした。また、異説もあるようですが、一般的には日本における初めての女優として位置づけられています。
9)上掲1, p.157.カッコ内は田中補足
10)音二郎が率いる一座の拠点として1910(明治43)年に建設され、レンガ造りで地上3階建てという堂々たる威容を誇っていました。日本初の純洋式劇場としても知られる建築でしたが、昭和40年代に残念ながら取り壊され、現在では大阪市の北浜に帝国座跡という記念碑を遺すのみとなっています。
11)明治44年11月12日付『東京朝日新聞』.カッコ内は田中補足
12)管見の限り詳細な費用は分かっていないのですが、おそらく膨大な金額であったと推測されます。また、音二郎の訃報が伝わるや否や、新派に属する主な俳優たちが緊急会議を開き、一切の葬儀費用を新派の俳優組合が負担することを満場一致で決定したのですが、貞奴は「川上は死んだあとが貧乏で葬式も出せなかったと言われたら、恥になる」という理由で、その申し出を当初は断ったのだそうです。しかし、音二郎は情熱だけでなく財産も演劇に注ぎ込んだため蓄えはほとんどなく、結局は音二郎の門弟たちに説得されて申し出を受け、各地の新聞にも「全国新派俳優一同ノ公葬トシテ執行仕候」という死亡広告が掲載されました。
13)南木芳太郎:供花放鳥,上方(続冠婚葬祭号),創元社,p.47,1938.句読点・旧字・送り仮名などは原文ママ
14)此経啓助:明治人のお葬式,現代書館,p.186,2001
15)実は音二郎の墓は東京の泉岳寺にも建てられました。「音二郎の恩顧をうけた東京在住の新派俳優や、劇団関係者は、彼らだけで丁重な葬儀をおこない、高輪の泉岳寺の境内に墓を建てた。生前音二郎が『死んだら尊敬する義士たちの傍らに埋めてくれ』と、いっていたからだという。しかし、この墓はいまはない」(井上精三:川上音二郎の生涯,葦書房,p.129,1985)とされています。ただ、「いまはない」と言っても撤去されてしまったのではなく、非公開の「檀家墓地」に移されているようです。尚、泉岳寺の境内には音二郎の記念碑も残されています。
16)上掲1, p.211





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