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第37回:墓じゃないのに墓になる(その3)

第37回:墓じゃないのに墓になる(その3)

2026.07.24田中 大介(自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授)

 オベリスクをめぐる時空を超えた旅も、3回目となる今回でようやく終点に到着できそうです。そう言えば、この原稿を書いている時点では日本中がワールドカップで盛り上がっていますが、開催国のひとつである米国の首都ワシントンD.C.にもワシントン記念塔1)という有名なオベリスクがあります。ホワイトハウスや自由の女神像などと並んで、米国を象徴する建造物と言ってもおそらく差し支えないでしょう。

 ワシントン記念塔が建てられたのは19世紀のことですが、古代エジプトに起源を持つオベリスクが数千年の時を経て、このワシントン記念塔のように世界のあらゆる地域へと広がった歴史を前回まで述べてきました。ただ、今回のトピックは単にオベリスクの意匠が世界的に拡大したということだけでなく、「お墓」や「死」のイメージと結びついた経緯をフィールドワークすることが目的でしたよね。そのためには、前回の旅で降り立った17世紀のイギリスから、もうちょっと先に進む必要があります。さて、次に向かうのは?

ヴァンブラが覗いたインド

 いきなりですが、ここで一人のイギリス人に登場してもらいましょう。その名もジョン・ヴァンブラ(1664-1726)。前回と前々回も参照させて頂いた東京大学大学院准教授の冨澤かな氏によると「(前略)著名な劇作家であり建築家である。22歳で職業軍人になった後、フランスで捕虜として収監されている間に最初の喜劇を書き、劇作家として知られるようになった。その後30代後半に、建築家の訓練を経ていないにもかかわらず、有名なキット・キャット・クラブでのカーライル伯爵チャールズ・ハワードとの縁からカースル・ハワードの設計を依頼され、以降建築家として広く活動することになる」2)との説明ですが、ここでちょっと補足を。

 キット・キャット・クラブというのは18世紀のロンドンにあった上流階級の社交クラブで、おそらく皆さんもご存知の「キット・カット」というお菓子の名前はここからきています3)。そしてカースル・ハワードは日本語にするとハワード城(Castle Howard)という名称ではありますが、お城ではなくカントリー・ハウス。つまり英国貴族が郊外や農地に築いた邸宅のことで、上述の引用文にも出てくるチャールズ・ハワード伯の大豪邸です。その壮麗さは、数あるカントリー・ハウスのなかでも随一と評されることもあるのだとか。たしかに下の写真を見ると、映画やマンガなどに出てくる「貴族のお屋敷」のイメージにバッチリですよね。一度でいいからこんな邸宅に住んでみたいと思ったりもしますが、根っからの貧乏性であるワタクシなどは3日ぐらいで「こんなダダっ広い家なんてお掃除も大変だし、そもそもトイレに行くのだって一苦労だよ!」なんてボヤいちゃうんだろうなあ、きっと。

ジョン・ヴァンブラとカースル・ハワード
[左:ゴドフリー・ネラー画, ジョン・ヴァンブラ肖像, 国立肖像画美術館蔵(イギリス・ロンドン)〔Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:John_Vanbrugh.jpg〕, 右:カースル・ハワード南面(イギリス・ヨークシャー)〔同, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Castle_Howard,_Yorkshire,_UK,_17112017,_JCW1967_(13)_(37634600455).jpg〕(最終確認:2026年7月10日)より引用]

 そんな妄想はさておき、このヴァンブラはなかなか興味深い経歴の持ち主なのです。まあ、先ほど示した略歴だけでも十分に興味深いのですが、彼は19歳のときに当時のイギリスが植民地交易のために設立した東インド会社から仕事を請け負う商人としてインドにわたり、現在でも貿易の要衝であるスーラトという都市に1683年から約1年半にわたって滞在していたと伝えられています。このスーラトはイギリスが1612年に初めてインドに東インド会社の商館を設立した都市で、ヴァンブラが渡航したときにはすでにその時点から約70年を経ていますから、人びとの往来もそれなりにはありました。とは言え、当時の人びとがイギリスとインドの間を行き来する手段は今のような快適な設備など何もない帆船しかありませんし、喜望峰を回るルートで半年ほどを要しました。現在のように気軽に行くことができるというわけでもなく、何となれば現地で、あるいは行き帰りの道中で命を落とす場合だって現在とは比較にならないほど多かったのです。作家にして建築家なんていう職業からも察することができる通り、好奇心旺盛なお方だったのでしょう。

 そしてワタクシは前回の最後に「この17世紀からオベリスクはさらに大陸を超えて、現在でもイギリスとつながりの深い、とある地へと旅立ちます」と書きましたが、もうおわかりですね? その「とある地」とは……インド! 冨沢氏も「ヴァンブラとオベリスクの関係には、実はインドが深く関わっている」4)と述べていますが、それではヴァンブラはインドで何を経験して、なぜそれが「オベリスクが墓になる」ことと関係があるのでしょうか。

 このスーラトという都市には、ヴァンブラがインドへと赴く以前からイギリス人墓地やオランダ人墓地など、植民地時代のインドに乗り込んできた列強諸国の人びとが葬られている墓地がありました。以下の写真をご覧くださいませ。

スーラトのイギリス人墓地とオランダ人墓地
[左:イギリス人墓地(インド・スーラト)〔Wikimedia Commons, https://en.wikipedia.org/wiki/British_Cemetery_of_Surat#/media/File:Old_English_Tombs_1.jpg〕, 右:オランダ人墓地(同)〔Tourism Corporation of Gujarat Ltd, https://gujarattourism.com/content/dam/gujrattourism/images/heritage-sites/dutch-cemetery/gallery/Dutch-Cemetery-(3).jpg〕(最終確認:2026年7月10日)より引用]

 見えますよね! オベリスクが! もっとも、これらの墓地に現存する大小さまざまなオベリスクの全てが、ヴァンブラがスーラトで暮らしていた時点に存在していたか否かについては、冨沢氏は注意深く断定を避けています。しかし、少なくとも「それなりに目に入る」状態であったのは間違いありません。それに加えて、お墓のデザインにどことなくインドっぽさが入り混じっているように見えませんか。「インドっぽさ」なんていうフワッとした言い方はそれこそジンルイガクシャ失格ではあるんですけれど、まさにこの「入り混じっている」というゴッタ煮的な特徴について、何人かの研究者はヨーロッパとインドの「ハイブリッド」という表現を用いています5)。特に19世紀半ばまでインドの大部分を支配していたムガル朝の建築様式がヨーロッパ人墓地の意匠にもたらした影響は顕著で、先ほどの写真にもあるようなドーム型の屋根を石柱で支えた「チャトリー」と呼ばれる塔型の建造物に、その影響が色濃く見受けられるんですよ。

 このようなスーラトのヨーロッパ人墓地に見られるハイブリッドな様相が形成された経緯について、冨沢氏は不明な点が多いとしつつも、「すでにヨーロッパでは普及していた装飾的なオベリスク利用がここでドーム屋根やチャトリー的な構造とともに用いられ、ハイブリッド化が進む中で、この意匠を装飾ではなく墓石の本体に用いることも一般化したのかもしれない」6)と述べています。つまり、異国の地で亡くなったヨーロッパの人びとが、現地のデザインを取り込みながら、それぞれの母国ですでに浸透していたオベリスクというデザインと融合させたのが、スーラトのヨーロッパ人墓地の特徴だったと言えるのではないでしょうか。そしてヴァンブラが建築家として名を馳せるのはもう少し後のことですが、このような光景が彼の建築デザインのイメージに強い影響をもたらしたのは明らかです。

さらに広がるオベリスク

 ここで、読者の皆さんの心の声をワタクシが言い当ててみせましょうか。「いや、『明らかです』とか堂々と言われてもねぇ……。これって、ただヨーロッパに広がっていたオベリスクがインドにも伝わったっていう話で、ヴァンブラさんは何か関係あるの?」と、まあそんなところじゃないでしょうか。

 ただ、ヴァンブラがインドから帰国して徐々に建築家としての仕事を拡大していくようになると、彼がスーラトで見たようなオベリスクのデザインを多く用いるようになったことは紛れもない事実です。それだけでなく、先述のカールス・ハワードをはじめとして数々の建築でヴァンブラと協働していたニコラス・ホークスムア(1661-1736)7)など、当時のイギリスにおける他の建築家のデザインにオベリスクが幅ひろく用いられていることも、「18世紀前半のイギリスにおけるオベリスク意匠の広がりの中心に、ヴァンブラがいたように思われる」8)と考えるに足る有力な証拠として挙げられます。

 とりわけヴァンブラが「墓石としてのオベリスク」の浸透と拡大に大きな役割を果たすことになったのは、ロンドン近郊に50ヵ所に上る教会を建てるという大々的なプロジェクトで委員を務め、1711年に「新たな教会の建築に関する提案書(Proposals about Building ye New Churches)」を提出したことによるものでした。この斬新な企画案のなかで、ヴァンブラは「教会の敷地外に新しい墓地を建設すべし」と主張し、さらに「これまでの埋葬法を批判した上で、もはや教会敷地に埋葬空間を得ることが難しいことをむしろ好機と捉え、教会墓地から独立した新たな墓地の設置を提案」9)したのです。しかもその提案書に添えられていたのは、「ほら、見て下さい! インドで私が見た墓地こそ、これからの理想像ですよ!」と言わんばかりに、スーラトで彼が目にしたオベリスクが立ち並ぶ墓地のスケッチ画。そのスケッチ画が、本当に彼がスーラトで見た写実的な光景なのか、それとも「ボクの考えた理想のお墓」なのか、判然とし難いところもありますが、いずれにしても、ヴァンブラがこれからの新しいお墓に適した墓石のデザインとしてオベリスクを念頭に置いていなければ、そのようなスケッチ画を提案書に添えていなかったはずです。

 ここで、「あれ? でも、前回の最後あたりに『16世紀から17世紀前半の、装飾的にオベリスクを利用したイギリスの墓は今も数多く確認できる』って書いていなかったっけ? じゃあ斬新でもナンでもないじゃん!」という皆さまの疑問にまたまた先回りしてお答えしておきましょう。

一般に、ヨーロッパにおいて教会から離れた近代的共同墓地(セメタリー)は、17~18世紀の人口増や新たな富裕階層による凝った大きな墓のためのスペースの要求、そして都市衛生の改善の要求の高まりなどを背景に、19世紀初めから成立、普及したものと言われる(中略)。しかしこのようなセメタリー型墓地文化は、インドにはごく早くから出現した。(中略)グジャラートのスーラトのイギリス人墓地の開設は17世紀半ばにまで遡る。(中略)インドのイギリス人墓地は事実上、近代的墓地文化の先駆け的存在であったといえる。 10)

 すなわち、ヴァンブラが上述の企画書を提出するあたりまでは、ヨーロッパでは墓は概して教会の堂内や敷地内に設けられており、当然オベリスクもそれらの空間で用いられることが常でした。前回のコラムで示したロバート・キールウェイの墓なども、それに該当します。しかしヴァンブラがイメージした新たな墓は、上述の引用の通り、あくまで教会の敷地から独立したセメタリー、つまり現在の私たちにとっては一般的な「霊園墓地」に建てられ、そこで用いられるオベリスクも単なる装飾的モチーフではなく、彼がスーラトで見たオベリスクそのものを墓石として用いるようなスタイルだったのです。もっとも、近代的な霊園墓地が世界中に拡大したのはヴァンブラだけの業績ではなく、さまざまな人物や出来事が関与しているものの、少なくとも彼がその先鞭をつけた人物の一人であるとは言えるでしょう。

 こうしてセメタリー=霊園という近代的な墓地文化がグローバルに拡大していく流れに乗って、オベリスクはまさに「墓になっていった」わけですが、慰霊のシンボルという位置づけも強められたことによって、墓石だけでなく冒頭に掲げたワシントン記念塔のような「死者を慰霊・顕彰するモニュメント」としても数多く用いられるようになりました。

ワシントン記念塔
[Wikimedia Commons, https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/89/Reflecting_Pool_from_Lincoln_Mem.jpg (最終確認:2026年7月10日)より引用]

 そうそう、このワシントン記念塔には日本も、そして今までのコラムに登場した有名な人物も関わっているんですよ。ご存知でしたか? それは、第15回でとりあげたペリー提督こと、マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858)。彼が率いて幕末の日本にやってきた黒船艦隊は、遠征中に立ち寄った日本の各地から石を贈呈され、その石がこのワシントン記念塔に用いられました11)。エジプトからローマへ。ローマからイギリスとヨーロッパ全土へ。そしてインドを経て、さらには日本へ。大陸も宗教も、そして数千年の時間も飛び越えて世界に広がっていったオベリスクは、今後どのような歴史を紡ぎ出すのでしょうね。その歴史の一部になりたい方々は、オベリスク型の墓石を人生最後の終着点として考えてみるのもイイかもしれません。


1)原語(Washington Monument)をそのまま用いてワシントン・モニュメントと呼ばれる場合もあります。ニュースの報道や映画などにもよく登場しますよね。ワタクシは『フォレスト・ガンプ』(1994)でトム・ハンクス演じるガンプが、ワシントン記念塔とリンカーン記念堂の間に広がるリフレクティング・プール(反射池)にジャブジャブと突進して恋人のジェニーと再会を果たす場面などを思い浮かべましたが、さて皆さんはいかがでしょうか。
2)冨澤かな:死とオベリスク 墓石のグローバル・ヒストリー,p.144,中央公論美術出版,2025
3)あるいは、ミュージカル史に燦然と輝く『キャバレー』の舞台となった架空のキャバレーを思いつく方もいらっしゃるかも? ちなみに現在ネスレが販売しているお菓子のキット・カットは元々ミート・パイのことで、キット・キャット・クラブという名称も、最初の集まりにこのミート・パイが供されたことに由来すると言われています。
4)上掲2, p.146
5)上掲2, p.174-175
6)上掲2, p.180
7)英国バロック様式建築の中心人物であり、ロンドンにあるセントポール大聖堂をはじめとして、多数の著名な教会の設計に携わったことでも知られています。
8)上掲2, p.146
9)上掲2, p.147
10)上掲2, p.26
11)もっとも、石を贈った(贈らされた?)のは日本だけでなく、ワシントン記念塔の建造にあたって、米国は世界各国からの贈り物として石を集めました。残念ながら日本から贈った石の多くは、その後に記念塔に乱入した反移民団体によって破壊されたり紛失してしまったりしたそうですが、伊豆の下田からペリーが持ち帰った石だけは現在でも記念塔の220段目の階段に残っているのだとか。尚、1989年には日米の友好の証として沖縄から「琉球の石」が米国に贈呈され、塔の半分ほどの高さに当たる場所に嵌め込まれています。

田中 大介

自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授

たなか・だいすけ/1995年に金沢大学経済学部経済学科卒業後、三菱商事株式会社入社。6年間の商社勤務を経て2001年に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に入学し、修士課程および博士課程を修了して博士(学術)取得。早稲田大学人間科学学術院などで教職を経て、2020年に自治医科大学医学部・大学院医学研究科教授に就任。専門は文化人類学・死生学。大学院生時代は葬儀社に従業員として数年間勤務するというフィールドワークを展開し、その経験をもとに執筆した『葬儀業のエスノグラフィ』(東京大学出版会,2017)をはじめ、主に現代的な葬制への関心を通じて「死をめぐる文化」の調査研究を進めている。

企画連載

おとむらいフィールドノート ~人類学からみる死のかたち~

人間が死ぬってどういうことなんだろう……。このコラムでは、人類学者である筆者があれこれと書き留めていくフィールドノートのように、死・弔い・看取りをめぐる幅ひろく豊かな文化のありかたを描き出していきます。ご自身が思う「死」というものを見つめ直してみませんか。

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