前回に引き続き、今回も壮大な時の流れのなかで「もともと墓じゃなかったのに、墓のデザインとして世界中に広がっていった」オベリスクをめぐる世界旅行に出かけてみることにしましょう。
とは言いながら、前回はオベリスクという石塔のモニュメントを建てる文化が古代エジプトから古代ローマに導入されたというお話に留まっていました。今回はここから一気に21世紀の現在まで駆け抜けるわけですが、何しろオベリスクをめぐる数千年の出来事を数ページで全て書きとめるのは至難の業。というわけで、ところどころ割愛したり、あるいは2倍速どころか500倍速ぐらいで述べたりした出来事もありますが、何卒ご容赦を1)。
ヴァティカン・オベリスクと「死のイメージ」
さあ、それでは古代エジプトから古代ローマにやってきたオベリスクはその後、はたしてどうなったのか!
……な~んて勇ましい言葉から始めてみたものの、実は前回登場したモンテチトーリオ・オベリスクも含めて「古代ローマに立ち並んでいたとされる多くのオベリスクはその後みな倒壊してしまい、唯一立ち続けていたのは(中略)現在のヴァティカン・オベリスクだけだったとされる」2)という惨憺たる状況になってしまいました。せっかく建てたのにモッタイナイ? ええ、たしかにその通り。でも、デカくて華々しい建造物は「つくる」よりも「保つ」ほうが大変だというのは古今東西変わらないんですよね。現在の私たちだって、たとえばバブリーで豪華なホテルやテーマパークが、程なくして無残な廃墟に……なんていう話をしばしば耳にするのではないでしょうか。
ただし上述のヴァティカン・オベリスクは、オベリスクというデザインが現在まで存続する上で特別な意味合いを持っています。それはなぜか。まさに「ヴァティカン」の名が冠されていることから、ピンと来た方々も多いのではないでしょうか。そう、このヴァティカン・オベリスクだけは先ほど述べたように古代からずっと倒壊せずに威容を保ち続けているだけでなく、キリスト教最大の教派であるローマ・カトリックの中心、バチカン(ヴァティカン)3)のサン・ピエトロ大聖堂に面したサン・ピエトロ広場に建てられているからです。西洋文化の基層をなすと言っても過言ではないキリスト教の一大聖地に、しかもそのド真ん中に建っているとなれば、それは人びとにとって特別な存在にもなりますよね。
実は、このヴァティカン・オベリスクはたしかに倒壊しないまま保たれていますが、最初からずっと同じ場所に立ち続けていたわけではありません。もともと初代ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前63-紀元14年)の命令でアレクサンドリアに運び込まれ、それがさらに第3代ローマ皇帝にして、一般的には残虐で放埓な人物として知られるカリグラ(紀元12-41年)4)によってローマに移設されたのです。そしてヴァティカン・オベリスクがローマに移設された当時、キリスト教はまだ黎明期にある時代でしたから、ちょっと言い過ぎかもしれませんがローマの人びとにとっては「キリスト教? 何それ?」という状況。当然、サン・ピエトロ大聖堂もサン・ピエトロ広場も、そしてキリスト教の聖地としてのバチカンという区域も存在しませんでした。
しかし、その少し後。じわりじわりとローマに、そしてローマ帝国の各地にキリスト教が浸透していくと、暴君として悪名高い第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37-68年)がキリスト教徒に対して残酷かつ大々的な迫害を繰り広げ、イエス・キリストに付き従った使徒たちのリーダーに位置づけられるペトロもその迫害によって殉教してしまいます。このペトロの墓と伝えられる場所に、後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂、すなわち「聖ペトロの大聖堂」というわけです。そしてサン・ピエトロ大聖堂はキリスト教が正式にローマ帝国の国教となった4世紀の時点ですでに創建されていたものの、現在のように壮麗にして壮大な建造物なったのは1千年以上の時を経た中世の16世紀に入ってからのこと。この時、かつてローマ皇帝カリグラがアレクサンドリアからローマへ移設したオベリスクは、さらにサン・ピエトロ大聖堂の目の前に移され、それ以降「ヴァティカン・オベリスク」と称されるようになりました。
こうしてヴァティカン・オベリスクはキリスト教の聖地におけるモニュメントになったわけですが、それだけでなく「単純に『キリスト教的』な存在と見ることのできない、重層的な含意を持つもの」5)としても人びとに記憶されるようになります。まずは、このオベリスクが先述の使徒ペトロの殉教6)という出来事を通じて、「気高く崇高な死」というイメージを連想させるという点が挙げられるでしょう。そしてさらに、ある伝説が12世紀頃から広がっていた点にも注目できます。その伝説とは何かというと、「ヴァティカン・オベリスクの頂点にあるピラミディオン(三角錐)のさらに上部には、金属製の球体と十字架が飾られているが、その球体の中にはローマ帝国誕生の礎を築いた偉大なるカエサル(紀元前100-紀元前44年)の遺灰が納められている」というもの。もちろん真偽は定かではありませんが、これもまた「歴史に残る偉大な業績を挙げた人物の死」というイメージを連想させるに違いありません。
この節の冒頭でワタクシは、ヴァティカン・オベリスクが「オベリスクというデザインが現代まで存続する上で特別な意味合いを持っている」と述べました。それは古代から西洋の中心であり、かつキリスト教の中心でもあったローマという世界都市で多くの人びとの目に触れることによって「オベリスクという視覚的なデザインを浸透させ続けてきた」という意味合いもあるのですが、それ以上に「もともと死という出来事や、死者の人格を連想させるものではなかったオベリスクに『死のイメージ』を結びつけた」という点でも大きな意味合いを持つのです。
ローマからイギリスへ
さあ、オベリスクの時空を超えた物語もやっと中世まで来ました。おそらく読者の皆さまは「まだ続くの……」と思われるかもしれませんが、ええ、まだまだ続くんですよ! これが!
まずは、先述のヴァティカン・オベリスクがサン・ピエトロ広場に移設されてから、ローマではオベリスク君(さん?)たちがどうなったのかという点について駆け足で眺めておきましょう。一言で表すと、それは「時を超えて復活!」と語って差し支えないものでした。ローマの随所で古代のオベリスクが再建されただけでなく、ヴェネツィアやミラノなどの都市でも教会、修道院、図書館、噴水などのさまざまな施設にモニュメントとして建てられたり、はたまた建物のファサード7)を飾る装飾的デザインとして盛んに用いられたりして、さらにオベリスクはそこかしこで人びとの目に触れるようになったのです。たとえば下の写真は、イタリアのヴェネツィアにあるサン・マルコ図書館8)。16世紀に建てられ、中世ルネサンス建築の精髄のひとつとも言われていますが、ファサードの上部にズラリと並ぶ像の両端にミニチュア版のようなオベリスクが見えますよね。
こうして「16世紀には(中略)オベリスク再建の夢が実現に向かうとともに、その意匠を建築にあしらうことも始まっていた。そしてこの装飾的な『小さいオベリスク』の利用は早々にヨーロッパ各地に展開していった」9)という時代が到来するわけです。そしてヨーロッパ各地のなかでも、とりわけ「オベリスクがお墓になっていく」プロセスを語る上で注目に値する地域がイギリスです10)。というのも、ローマをはじめイタリア各地でオベリスクが復活を遂げた時期とさほど時間差なく、エリザベス朝時代の16世紀後半には貴族の庭園などに上述の「小さなオベリスク」を建てる動きが徐々に盛んになり、それだけでなく「墓に小さいオベリスクを装飾的に用いることもほぼ同時期に始まっていた」11)から。
たとえば下の写真の左側にあるオベリスクは、イングランド王ヘンリー8世(1491-1547)が建てたノンサッチ宮殿のなかにあったとされるものです。この宮殿は後にジョン・ラムリー男爵(1533-1609)という貴族がヘンリー8世から受け継ぐのですが、台座部分にはラムリー家の紋章が刻まれているため、おそらくラムリー男爵が宮殿を受け継いだ16世紀後半の時点で新たに建てられたと推測されます。一方、右側は同じく16世紀後半に議員や法務顧問として活躍したロバート・キールウェイという人物の墓。オベリスク単体ではなく、あくまで装飾の一部ではあるものの、まさにそのデザインは先述の「気高く崇高な死」や「歴史に残る偉大な業績を挙げた人物の死」といったイメージを醸し出すのに一役買っているとは言えないでしょうか。
そして特に上述のキールウェイの墓と同様のデザインは、今回も数多く引用させていた冨沢かな氏が「16世紀から17世紀前半の、装飾的にオベリスクを利用したイギリスの墓は今も数多く確認できる」11)と述べているように、ごくありふれた墓のデザインとなるに至りました。さらに17世紀と言えば、スペインやポルトガルが先行していた大航海時代にイギリスが遂に乗り出し、まさに7つの海を乗り越えて世界中に大英帝国の版図(はんと)を、そして文化を拡大していった時代と重なります。「そりゃ世界中にオベリスクが建てられ、そしてオベリスクを利用した墓が広がるわけだよ」ということで、前回から続いてきたオベリスクの旅もようやくここで終わりを告げることに……と、読者の皆さんもホッとしたのではないでしょうか。
しかし、残念でした! そうは問屋がおろしませんから覚悟してください。実はここから、まだもうちょっと続きがあるんです。「ちょっと」と言っても数百年分はあるんですけどね。この17世紀からオベリスクはさらに大陸を超えて、現在でもイギリスとつながりの深い、とある地へと旅立ちます。とは言うものの、ワタクシ史上最高に原稿が遅れてしまっている現在、ここから先を書き進めていくと南江堂のYさんが大英帝国さながらに東京からワタクシが住む栃木へと侵攻してきて、「一体いつまで待たせるんですか!」と喉元に銃をつきつけられる羽目になりかねません。次回で(たぶん)旅を終えられると思いますので、どうか皆さまもお待ちくださいませ……。
2)上掲1, p.295
3)「ヴァティカン」と「バチカン」で表記が異なっていますが、前者は上掲1)の原文にある表記を、後者は現在の正式な国名の日本語表記である「バチカン市国」を、それぞれ採用しています。
4)このように皇帝カリグラはかなりのイカレポンチ(?)として語られることが通例で、たしかに醜聞には事欠かない人物だったようですが、その一方で「統治者としてはかなり優秀だったのでは」という説もあったりします。それはさておき、実は彼がローマに移設したヴァティカン・オベリスクには碑文がないだけでなく、「どこから持ってきたのか」という点を含めて詳細な由来は分かっていません。古代エジプトの支配下で碑文のないオベリスクが建造されることは考え難いため、おそらくローマ帝国が支配する地域で新たにつくられたか、エジプトでつくられたにしても「碑文のない未完成の状態のオベリスクが持ち込まれたのではないか」と推測されています。
5)上掲1, p.297
6)ローマ・カトリックではペトロが初代教皇に位置づけられています。ちなみに聖書外典である『ペテロ行伝(ペトロ行伝)』の言い伝えによると、皇帝ネロによる残酷極まりないキリスト教への迫害が開始された当時、ローマで布教していたペトロはひとまず現地から脱出しようと考えたものの、なんと十字架に磔にされて息を引き取ったはずのイエスに出会って思わず「主よ、どこに行かれるのですか(クォ・ヴァディス=Quo vadis)」と尋ねます。するとイエスは「再び十字架で磔にされるためにローマに行くのだ」と答え、それを聞いたペトロは自らを恥じて一目散にローマに引き返し、自ら進んで逆さまに十字架に磔にされて殉教したのだとか。逆さまを望んだのは、「主と同じでは畏れ多い」ということなのでしょうね。
7)一般的には「建物を正面から見たときの外観的デザイン」を指します。
8)現在の正式名称は国立マルチャーナ図書館(Biblioteca nazionale Marciana)。
9)上掲1, p.109
10)もちろん地政学的にも、そして領土の区域や権力機構といった面においても、現代の「イギリス」や「イタリア」という国家をそのまま中世に当てはめるわけにはいかないことも事実ですので、あくまでザックリとした地理的なイメージとして捉えてくださいね。
11)上掲1, p.114
12)上掲1, p.114





