木々の緑が深みを増し、夏の気配を感じる季節となりました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
本稿を執筆している今日このごろは、病棟実習で、実習指導者の方々と行動調整や振り返りの時間について事前に細かく相談する機会が増えています。臨床と大学の連携がうまく機能し、学生が学びに集中できる環境が整ってきたことは、ありがたいことです。
一方で、ふと考えることがあります。一昔前の実習では、「今、声をかけても大丈夫かな……」とナースステーションの空気を読みながら、タイミングを見計らって話しかけていました。相手の時間を奪わないように要点を絞って伝えるなど、現場での小さな試行錯誤を重ねていたように思います。過度な緊張感や理不尽さを美化するつもりは毛頭ありません。ただ、そうした試行錯誤のなかで、臨床で働くうえで必要な“しなやかさ”や“打たれ強さ”を身につけていた面もあったのではないでしょうか。
学生が失敗しないように、傷つかないように、教員が先回りして守ることは大切です。しかし、看護師として働き始めたあとのことを考えると、それは本当に学生のためになっているのでしょうか。今回は、この「やさしさ」の裏に潜む残酷さと、本当の学生中心性について考えてみたいと思います。
先回りして障害物をどける「やさしさ」の正体
実習現場では、私たち教員はつい先回りをしたくなります。学生が忘れ物をしないように何度もリマインドする。行動調整で指導者さんから「そこ、どう考えたの?」と確認されそうな内容を、事前に整えておく。退院指導で学生が困らないように、すぐ横でいつでも助け舟を出せるように構える。そんなふうに、学生がなるべく転ばないよう、せっせと道を整えてしまうことがあります。すると学生は安心し、教員も「今日も無事に終わった」と胸をなで下ろします。
しかし、これは本当に「やさしい」指導なのでしょうか。実習の到達目標は達成できている。学びもある。評価もできる。けれど、学生が自分で壁にぶつかり、悩み、そこから自力で立て直す機会が、少しずつ減っていくような指導なのかもしれません。
臨床で働き始めたとき、いつも誰かが道を整えてくれるわけではありません。自分で状況を読み、考え、ときには失敗しながら道を切り拓く必要があります。失敗を回避させる「やさしさ」は、学生からレジリエンス、つまり「折れずに立ち直る力」を育む機会を奪う「残酷なやさしさ」なのではないか。最近、私はそんなジレンマを感じています。
過酷だったからではなく、自分で「意味を見いだした」から
少し、私の昔話をさせてください。高校時代、私は漫画『ドカベン』のモデルになった高校で野球部に所属していました。公式戦には一度も出られませんでしたが、3年間、泥にまみれて仲間と過ごした日々は、今の自分を支えています。
中でも忘れられないのが、2001年の夏合宿での「シコ踏み」です。片足を高く上げて踏み込み腰を落とす地味ながらキツイ動作。OBが「おっ、今年は2001年だから2100本だな!」と言い出し、朝4時から延々と取り組んだことがあります。もちろん、今なら同じような指導はできません。それでも当時の私たちは、歯を食いしばって淡々と乗り越えました。
18歳の春には大学受験に不合格となり、ゆかりのない土地で新聞奨学金制度を利用し、働きながら予備校に通いました。四畳半の部屋で一人暮らしをしながら、朝1時に起きて新聞を配り、少し仮眠をとって予備校へ行く。日々の睡眠時間は3〜4時間でした。
いずれも過酷な日々でしたが、大切なのは、この「過酷さ」そのものではありません。「自分で選び、苦しみながらも、意味を見いだして立ち上がった」という経験こそが、今の私を支えているのだと、心から思えます。
本当の「学生中心性」は、安全に転べる環境をつくること
もちろん、今の学生たちに、昔ながらの根性論を押しつける気はありません。当然ながら、学生を不必要に傷つけるのは論外です。しかし、傷つけることを恐れるあまり、腫れ物に触るように接することが、本当の意味での「学生中心」と言えるのでしょうか。学生を甘やかすことや、絶対に失敗させないことを「学生中心性」とは、私には思えません。
学生がいずれ飛び込む臨床現場は、管理されたシミュレーション環境ではありません。想定外の出来事に戸惑い、厳しい言葉に傷つき、自分の未熟さに打ちひしがれることもあります。だからこそ、実習という教育の場で「安全に転ぶ」経験をしておくことには、大きな意味があるのだと思います。
教員の役割は、学生が絶対に転ばないように先回りして支え続けることではなく、大きく傷つかない範囲で、安全に転べる環境をつくることではないでしょうか。
自転車の練習と同じです。ずっと補助輪をつけ、教員が後ろから支えていれば、学生は転びません。しかし、教員の目が届くあいだは補助輪を外さず、卒業して手元を離れた瞬間に補助輪も支えもなしでいきなり公道へ一人で送り出すとしたら……。それは本当に本人のためになるのでしょうか。多少ひざをすりむいたとしても、安全な場所で転び方や立ち上がり方を覚えておく。その経験こそが、やがて一人で走り出す力につながるのだと思います。
[生成AIにて筆者作成]
本当のやさしさは、少しだけ厳しい
もちろん、実習では患者さんの安全と尊厳が最優先です。患者さんに不利益が生じる場面では、教員は迷わず介入しなければなりません。また、学生の人格を傷つける経験を「学び」と呼んで放置することも違います。患者さんや学生を守るためのセーフティネットを張ったうえで、学生自身が考え、伝え、うまくいかないという経験をし、そしてそれらを振り返る「余地」を残すことが大切なのだと思います。
教員だって人間です。「やさしいだけの先生」でいるほうが、学生に嫌われにくいし、実習もスムーズに進みます。それでも、私たちは学生の「乗り越える力」を信じたい。転ばせない教育ではなく、安全に転べる教育をしたいと思っています。本当のやさしさは、少しだけ厳しいものなのかもしれません。

――と、ここまで書いておきながら、あのシコ踏み2100本の記憶も、新聞配達の日々も、少し美化されている気がしないでもありません(笑)。それでも、人はつらかった経験にも意味を見いだしながら、何とか前に進んでいく存在なのだと思います。学生にも、いつか「あのとき自分で乗り越えたな」と思える経験を残せるように。今日も少しだけ、厳しいやさしさを意識していきたいと思います。





