はじめに:なぜせん妄を「擬似体験」する必要があるのか
看護基礎教育において、「せん妄」は必須の学習項目です。しかし、先生方も日々感じておられるように、教科書的な知識として「意識障害」、「幻覚」、「興奮」といった症状を学生に暗記させることと、臨床現場で突如として豹変する患者を目の前にし、適切にかかわることの間には、大きな溝が存在すると思います。
私は、大阪電気通信大学大学院との共同研究により、2023年に世界で初めて術後せん妄を疑似体験できる「VR(Virtual Reality)術後せん妄システム」(以下、VRせん妄教材)を開発しました。今回は、前編・後編の2回にわたり、このVRせん妄教材を用いた看護教育の新たな可能性について紹介させていただきます。
前編では、このVRせん妄教材の開発経緯や、開発にあたりこだわった「当事者自身の視点での再現」、そしてなぜ既存の教材ではなくVRでなければならなかったのかについて詳しく述べていきたいと思います。
VRせん妄開発の原点:身体拘束を「業務」としていた臨床看護師時代の後悔
私がこのVRせん妄教材を開発しようと思い立った根底には、私自身が臨床看護師時代に抱いた、ある強烈な「後悔」があります。
かつて私は臨床看護師として、精神科病棟や一般外科病棟で勤務していました。そこでは、術後の患者がせん妄を発症し、点滴ルートを自己抜去したり、大声を出して暴れたりすることは日常茶飯事でした。当時の私は、患者の安全を守るため、そして治療を継続するために、医師の指示のもと、患者の手足をベッド柵に縛り付ける「身体拘束」を行っていました。
『せん妄の臨床指針』において、身体拘束は「著しい興奮や行動上の問題に対して、薬物療法など他の代替手段が奏効しない場合の最終手段」とされています1)。しかし、今となっては恥ずかしい話ですが、当時の私にとって身体拘束は、安全管理上の「必要な業務」であり、そこに疑問を抱く余裕すらありませんでした。「暴れるから抑制する」「点滴のチューブやドレーンを抜くから抑制する」。それは、多忙な業務フローの中に組み込まれたルーチンワーク化していました。
身体拘束された患者の表情を、私は本当に見ていたでしょうか。「助けてくれ!」、「ここに怖い人が立っている!襲われる!」と必死に叫ぶ患者の言葉を、「せん妄による幻覚だから」と聞き流し、その恐怖に怯える患者の心に寄り添うことができていませんでした。当時の私は、患者の見えていて、感じている「内面」をまったく理解しようとしていませんでした。ただ「困った行動をする患者」としてしか見ていませんでした。
せん妄患者の「問題行動」の裏側にある切実な理由
なぜ、せん妄を発症した患者は生命に直結する大事な点滴のチューブやドレーンを抜こうとするのでしょうか。なぜ、必死の形相で命がけでベッドから降りて何かから逃げようとしたり、暴れたりするのでしょうか。 その理由を知るきっかけとなったのは、せん妄を発症し、せん妄発症当時の記憶を覚えている患者たちへの聞き取りでした。
ある患者は次のように言いました。「天井に無数の黒い虫が這っていて、徐々に身体の上に這い上がってきた。気持ち悪くて逃げようと必死だった」。別の患者は、「気付いたら見知らぬ人が病室に立っているのを見た」「武装した目が3つある兵士が襲って来た。殺されると思って逃げようとしたら、点滴のチューブやおしっこの管が、邪魔で逃げることができなかったから、必死で抜いて逃げた」などの体験を語ってくれました。
せん妄患者にとって、見えている幻覚は「現実」そのものでした。私たちが「術後に必要な大事な管」として見ているものは、彼らの幻覚の中の主観的世界では「逃げるときの足かせ」だったのです。眼の前に迫っている恐怖から逃げるためにチューブを引き抜こうとする行為は、患者にとって「自己防衛」のための必死の抵抗であり、生きるための行動だったのです。
私たち医療従事者は、せん妄患者の一連の行動を医療従事者側の立場だけで「不穏」、「問題行動」、「治療妨害」と判断し、レッテル張りし、身体拘束という手段を安易に取ってしまいます。しかし、せん妄患者が見ている「現実」を理解することで、その行動には切実な意味・理由があることがわかります。
真の「身体拘束ゼロ」のために目指す看護
認知症ケアの分野で中島紀恵子は、認知症の人の行動障害を単なる症状としてではなく、ケアする側への「メッセージ」として捉える重要性を説いています2)。この視点は、せん妄ケアにおいても極めて重要だと考えます。せん妄患者の行動は、混乱した脳が作り出す恐怖や不安という「満たされないニーズ」に対する、患者なりの精一杯の対処機制行動なのです。
さまざまな経験を積んで私が行きつき、今後目指す看護は、トラベルビーが提唱したような、患者を一人の人間として尊重し、共感的にかかわる「人間対人間の看護」です3)。身体拘束で行動を物理的に止めるのではなく、患者が見ている「恐怖の世界」の内面を理解し、その孤独と不安に寄り添うことで、安心感をもたらすような看護の実践。これこそが、真の「身体拘束ゼロ」への小さな一歩であると確信しました。
なぜ「VR」でなければならないのか:認知的理解から共感的理解へ
せん妄患者の内面を医療従事者が理解する必要性は、講義で言葉を尽くして学生に伝えることはできます。しかし、従来の教育手法には限界があると感じました。 教科書で「術後せん妄では幻覚が見えることがある」と文字で読んでも、あるいは教材の映像を客観的に視聴しても、学生の理解は認知的理解、すなわち知識として理解するレベルに留まります。
ここで必要となるのが、「没入」と「一人称での経験」です。 経験学習の理論家であるコルブは、学びのプロセスにおいて「具体的経験」が不可欠であり、経験し、感じることが深い学びの入り口になると述べています4)。しかし、倫理的にも物理的にも、看護学生に実際のリアルなせん妄を体験させることは不可能です。
そこで私が着目したのが、VR技術でした。 VRの特徴は、360度の映像と音声により、あたかもその場にいるかのような圧倒的な没入感を生み出せる点にあります。VRゴーグル(図1)を装着した瞬間、学生は「看護学生」ではなく、「術後のベッドに横たわり、身体を拘束され、恐怖の幻覚に襲われる一人のせん妄患者」に変身します。
第三者として「見る」のではなく、当事者として「一人称で体験する」。 このパラダイムシフトこそが、表面的な知識から血の通った「共感的理解」へと昇華させるために不可欠だと考えました。
VRせん妄開発のプロセス:エビデンスに基づいたせん妄リアリティの追求
私は、このVR映像をよくある「エンターテインメント」だけにはしたくないという強い思いで制作に取り掛かりました。「教育教材」である以上、この映像は医学的・看護学的に正確であり、信頼性があり、かつ倫理的配慮に基づいたものでなければなりません。 私は大阪電気通信大学大学院の登尾研究室と國居貴浩博士の研究チームと協働し、以下の3段階のプロセスを経てVRせん妄コンテンツを開発しました。
1)質的データの収集と分析
私は実際に術後せん妄を経験した患者およびICUに勤務している10年以上の熟練看護師への半構造化面接調査を行いました。せん妄患者はどのような幻覚が見えたのか、その時看護師の言葉はどう聞こえたのか、身体を拘束された時の感情はどうだったのか。ICU看護師への面接調査では、せん妄患者特有の言動、動きや行動パターンを聞き取り分析しました。
2)VR映像への実装
上記で収集したエピソードをもとに、VR映像のシナリオを作成しました。 特にこだわったのは、視覚・聴覚の歪みです。単に怖いお化けが出現するのではありません。天井に虫が出現する、天井が迫ってきて押しつぶされそうになる、見知らぬ人がベッドの足元に立っている、看護師が自分を襲いに来る兵士のように見える(図2)。こうした「認知・知覚の異常」をVRの中で忠実に再現しました。
3)熟練看護師やVR専門家による監修と倫理的配慮
完成したプロトタイプは、ICUでの看護経験が豊富な熟練看護師による複数回のレビューを受け、またVR映像の専門家の助言を得ながら改良を繰り返して完成度を高めました。また、倫理的配慮として、体験者の心理的負担(VR酔いやフラッシュバック等)軽減に配慮しました。具体的には体験前にVRにて映し出される映像についてのオリエンテーションの実施や、VR体験後の共有を含めたデブリーフィングの構造化も同時に構築しました。
完成した「VRせん妄疑似体験」の世界
これらの過程を経て完成したVRコンテンツは、夜のICUのベッド上が舞台です。 体験者がゴーグルを装着すると、そこは術後のICUのベッドの上です。自分の体を見下ろすと、たくさんのチューブが繋がれています。耳元では心拍監視装置のモニター音が鳴り響いています。
幻覚体験は6パターン用意しています。それぞれ「変化なし」、「天井に無数の虫が出現する」、「天井が迫ってくる」、「ベッドの足元に人が立っている」、「3パターンの兵士が襲ってくる」、「変化なし」の合計12分間の映像です。
この12分間のせん妄擬似体験を通じ、体験者は初めて、かつて私が、そして多くの看護師が「問題行動」として対応してきた、せん妄患者の行動の裏にある、真実の意味・感情・内面に触れることになります。
VR技術が拓く「内面を理解する心」の教育
前編では、私の臨床での後悔から始まった、VRせん妄教材開発の経緯と、その教育的意図について述べました。 VRは単なる新奇なガジェットではありません。それは、自分以外の他者の痛みを想像する力を育み、看護の質を根底から変えるための強力なツールとなり得ます。 患者の「見ている世界」を内面から理解することは、身体拘束を外すための最初の一歩です。
次回の後編では、実際にこのVR教材を看護学生や新人看護師に使用した際に見られた教育効果について述べます。具体的にはVR視聴時の前中後に心理面と身体面の2側面から評価しました。1つ目はVR視聴の前後での心理面のデータです。2つ目はVR視聴中の自律神経、特に交感神経と副交感神経の変化のデータを取得し科学的に分析しました。詳しくは後編で述べていきます。
1)日本総合病院精神医学会 編:せん妄の臨床指針―せん妄の治療指針,第2版,星和書店,2015
2)中島紀恵子:認知症の人びとの看護,第3版,医歯薬出版,2017
3)トラベルビー, J.:人間対人間の看護,医学書院,1974
4)コルブ, D. A.,ピーターソン, K.:最強の経験学習,辰巳出版,2018
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