新年度の慌ただしさも少し落ち着き、初夏の風が吹き抜ける今日このごろ、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
先日、休みを利用して娘2人と河口湖へ行き、久しぶりに富士山を間近で見てきました(図1)。その圧倒的な大きさと美しさを前にして、ふと思ったのです。大昔にこの山を見たら、理屈を超えた神秘性を感じ、信仰の対象になったとしても不思議ではないだろうな、と。理屈抜きに「凄い」と感じるこの感覚こそ、人間が古くから持っている大切な感性なのかもしれません。
そういえば少し前、東京で開催された「ラムセス大王展」というエジプト展にも足を運びました。そこで目にしたのが、紀元前1286年頃の「カデシュの戦い」の記録です(図2)。大昔の出来事が、絵や文字として残され、時空を超えて現代の私たちに届いてくる。その事実に、私は強く心を動かされました。人間の営みは、記録されることで時代を超えるのです。これは、私たちが日々取り組んでいる教育や研究にもどこか通じるものがあるように思います。
もっとも、その記録は「王が一人で敵の戦車部隊を蹴散らした」という豪快な物語でした。思わず「それは盛りすぎでは」と突っ込みつつも、何かを伝えるために事実に尾ひれがつくのも人間らしい特性なのだろうと、妙に納得してしまいました。
人は、理屈だけで世界を理解しているのではなく、驚き、意味づけ、物語りながら生きています。だからこそ、その人に生じている反応に向き合う看護という営みには、深い意味があるのだと思います。
「人間の反応」を扱う専門職として
なぜ急にこんな歴史の話をしたかというと、人間のこうした特性を理解しておくことが、教育にも臨床にも大切なのではないかと思ったからです。
看護はしばしば、「病気」や「治療」を扱う仕事として理解されます。しかし、看護が向き合っているものは、それだけではありません。アメリカ看護師協会(ANA)は、看護を、現にある、あるいは起こりうる健康問題に対する人間の反応を捉え、それに対応する営みとして示しています1)。
たとえば、心不全で入院してきた患者さんがいたとします。私たちは心臓の状態だけをみているわけではありません。心不全によって生じる身体的な反応はもちろん、「これからの生活はどうなるのだろう」という不安、「職場に連絡しなければ」といった社会的な気がかりなど、その人の中に生じているさまざまな反応をみています。患者さんは、私たちが外側から把握する「客観的な事実」だけで生きているのではなく、その人自身が体験している「主観的な世界」を生きています。看護師は、そうした内的世界を大切にしながら、そこから生じる人間の反応にアプローチしていく専門職なのだと思います。
そして、対象が「患者さん」から「学生」に変わっても、私たちが人間を扱う専門職であることに変わりはありません。たとえば実習中、頭では「病気の影響による言動かもしれない」とわかっていても、患者さんから強い言葉を向けられれば、学生は傷つきます。そんなとき、教員である私たちが「もっとプロ意識を持ちなさい」といった正論だけで理詰めにしてしまえば、学生の心は行き場を失い、閉ざされてしまいます。
だからこそ、まずは学生が体験している「ショック」や「戸惑い」に寄り添い、成功体験を一緒に喜び、看護の楽しさを実感できるように支えることが大切なのだと思います。つらい場面であっても、患者さんの視点から物事を見られたとき、学生の中には「見えている世界が少し広がった」と感じる瞬間があります。そうした経験の積み重ねのなかで、看護の深さが少しずつ腑に落ちていくのではないでしょうか。
「理屈ではわかっていても、心がついていかない」。そんな弱さや揺らぎが見えたとき、それを未熟さとして切り捨てるのではなく、「人間だもの」と自然な反応として受け止めてみる。そうすると、相手にも自分にも、少し余白を残しながら向き合えるようになる気がします。
看護を学ぶことは、人生を豊かにする
人間を深く理解し、その反応に寄り添う。そんな「看護」という学問を学ぶことは、私たちの人生を豊かにしてくれると思います。なぜなら、自分自身も人間であり、周りにいる家族や同僚も人間だからです。人間として人間社会に生きる以上、「人間」を扱う専門家になるための学びは、きっと人生を豊かにするはずです。
私には3人の子どもがいますが、妻の妊娠や出産、子どもたちの成長発達を見守るなかで、看護の知識や経験に何度も助けられてきました。家族に手術が必要になったときにも「自分が看護師で良かった」と感じましたし、これから歳を重ねていく両親を支えるときにも、きっと同じように感じるはずです。科学的でありながら哲学的でもある看護学の思考は、物事を多面的に見る視点を私たちに与えてくれます。
さらに視点を社会全体に広げてみると、現代の日本は医療費が高騰し、国民の負担が増え続けています。こうした複雑な社会課題を解決するカギも、実は「看護」にあるのではないかと私は考えています。
いつか「看護」が義務教育になる日を夢見て
人類は、洞窟生活に明け暮れていた大昔から、傷ついた仲間をケアしてきました。すなわち看護とは、人間にとって極めて本質的な営みなのです。
ナイチンゲールは『看護覚え書』のなかで、「すべての女性がある時期に看護婦にならなくてはならない」と記しました2)。もちろん、現代の私たちはこの言葉をそのまま受け取ることはしません。しかし私は、この考え方の核にあるものは、今なお大切だと感じています。つまり、看護は一部の専門職だけのものではなく、本来は誰もが生きるうえで学ぶ価値のある「知」なのではないか、ということです。
誰もが避けられない生老病死。医学的知識を兼ね備えつつ、その苦しみを理解し、寄り添うために発展してきたこの学問を、誰もが学ぶべき時代が来ているのではないでしょうか。もちろん、ここで私が言いたいのは、制度としてそのまま「義務教育化」すべきだということではありません。看護の視点が、もっと広く市民の教養として共有されていってほしい、という願いです。将来、看護の一部が市民にとってもっと身近な「教養」となり、一人ひとりの「看護する力」が高まっていく社会になったら素敵だなと思います。そんな社会では、きっと今よりも健康が身近なものとして意識され、互いの弱さや苦しさにもやさしくなれるのではないかと思います。
だからこそ私たちは、次世代を担う学生たちに、看護のやりがいや奥深さを伝えていきたい。そして、日々の激務に追われ、働く意味を見失いそうになっている臨床の看護師にも、「私たちの仕事は、こんなにも人間の本質に根ざした営みなのだ」と、あらためて感じてもらえたらと思うのです。看護教員の仕事とは、知識や技術を教えるだけでなく、人間を理解する学としての看護を、次の世代へ手渡していく営みなのかもしれません。

――と、少し熱く語りすぎたかもしれません。
エジプトの王様のように“盛りすぎ”と言われない程度に、明日からの授業も、等身大の言葉で目の前の学生たちと向き合っていきたいと思います。
1)American Nurses Association: What is Nursing? Your Questions Answered, 〔https://www.nursingworld.org/practice-policy/workforce/what-is-nursing/〕(最終確認:2026年4月2日)
2)F. ナイチンゲール:看護覚え書;看護であること 看護でないこと, 第8版(湯槇ます,薄井坦子,小玉香津子ほか訳),現代社,2023





_1640305747860.png)