はじめに
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、感染対策を見直す契機となりました。医療現場では、重要とされながらも取り組みが十分だったとは言えない標準予防策や換気といった基本的な対策が、未知の病原体への無防備な曝露を防ぐ防波堤として機能することが改めて認識されました。また、空気を介した病原体の伝播様式に関する考え方が変化したことで、医療従事者一人ひとりが場面ごとの感染リスクを評価しながら、適切な対策をタイムリーに選択する必要性が生じました。
しかし、こうした変化が、より安全な医療現場の実現に直結しているかと言えば、必ずしもそうではありません。パンデミック発生からの数年間は手指衛生遵守率の上昇など望ましい行動変容が見られたものの、現在はそれが維持されにくくなっているという課題に直面しています1)。感染対策の習慣化をどう達成するか。本稿では、パンデミックを経て蓄積された知見を手がかりに、看護教育の観点からこの問いについて考えてみたいと思います。
見直された標準予防策の意義
標準予防策とは、感染症の診断や検査結果によらず、すべての医療現場ですべての患者に対して実践する基本的な感染対策です。手指衛生や個人防護具(PPE)の適切な使用をはじめとする複数の具体策で構成され、血液・体液・分泌物・排泄物(通常は汗を除く)・粘膜・損傷した皮膚に含まれる病原体への曝露を防ぐことを目的としています2)。日常的に標準予防策を確実に実践している医療現場は、病原体の種類を問わず曝露リスクが相対的に低く抑えられた、安全性の高い環境です。そのため、看護学生を含む実習生に対しても職員と同一水準の実践を求めている施設では、平時のみならずパンデミック下においても、実習生の安全が職員と同様に守られることになります。
効果的な手指衛生
標準予防策の実践を根付かせるうえで不可欠な要素として、手指衛生のタイミングに関する指導が挙げられます。WHOは手指衛生を5つのタイミング(患者に触れる前、清潔・無菌操作の前、血液・体液に曝露した後、患者に触れた後、患者周辺の環境面に触れた後)で実践することを推奨していますが、これらのタイミングにおける手指衛生実施率は平均40%程度にとどまると報告されており、習慣化には課題があります3)。
その要因は複合的ですが、ひとつに、患者ゾーン(患者由来の病原体で汚染されているエリア)とそれ以外のエリアを分ける境界線が臨床現場では必ずしも明確ではなく、タイミングを判断しにくいことが挙げられます。適切なタイミングで手指衛生を行うために、実習を行う現場にある患者ゾーンの境界線について、臨床のスタッフと共通認識を持っておくことが勧められます。加えて、ケアや処置の流れの中で5つのタイミングがどこで発生しているか正確にとらえることは案外難しいものです。たとえば、ベッドサイドでの一連のケアを振り返りながら、「今の場面ではどこで手指衛生が必要だったか」を言語化する訓練は、手指衛生のタイミングに関する知識を身体的な感覚と結びつける上で有効と考えられます。
個人防護具の選択と着脱
PPEの活用も標準予防策の中核となる重要な感染対策です。PPEで感染を防ぐには、ケアや処置の前に、汚染が生じ得る身体部位を覆うPPEを選択し、覆われていないところが最小となるように着用することが求められます。同様に、取り外す手順も重要です。脱衣の手順を誤ると、PPE表面に付着した病原体が手指を介して粘膜を汚染するリスクが生じるためです。実習前の演習でPPEの着脱手順を学んだとしても、臨床では手順が省略されたり、取り外す際の注意が薄れたりすることが少なくありません。蛍光塗料を用いたシミュレーションにより、脱衣時の汚染の拡散を視覚的に体験させる取り組みは、知識と経験の両面から理解を促すアプローチとして有用です。ただし、こうした演習を単発で終わらせるのではなく、実習中の着脱行動についてタイムリーかつ具体的なフィードバックを提供することで、学びが臨床での実践に結びつきやすくなると考えられます。
実践の習慣化
感染対策の実践は、個人の知識や意思に左右される部分が大きく、知ることと継続してやり続けることの間には依然として大きな隔たりがあります。パンデミック初期に見られた手指衛生遵守率の上昇とその後の低下は、この隔たりを示す典型的な例に挙げられます1)。
これまで臨床および看護教育の場で行われてきた感染対策の指導は、知識や手技の習得に重点が置かれてきました。しかし、それだけでは行動変容やその維持に結びつきにくいことが、行動科学や実装科学の分野で示されています。継続的な実践を支えるには、実践を容易にする環境整備、実践状況やそのアウトカムの測定とフィードバック、そして指導者や同僚の行動が模範として機能することなどが重要な要素として挙げられています。
臨床と同様に、看護教育においても、こうした要素をどのように取り入れるかは大きな課題です。たとえば、実習中に学生どうしがお互いの手指衛生のタイミングや手順を記録し、後で振り返る機会を設けることは、行動変容を促す手法として応用が可能です。また、指導者自身がロールモデルとして標準予防策を一貫して実践している姿を見せることが、学生の行動規範の形成に影響を与えると考えられます。「組織文化を形づくるのは、リーダーが黙認する最も好ましくない行動である」という言葉があります4)。指導者が何を重要と考え、何を見逃しているかを、指導を受ける側は常に見ています。この視線を意識することが、感染対策の実践を支え続ける安全文化を形づくる出発点となります。
空気を介した感染の再整理
COVID-19の発生を契機に、空気中の感染性微粒子を介した伝播の考え方も整理し直されています。従来は、微粒子の粒径5μmを境に「飛沫感染」と「空気感染」を二項対立で説明することが一般的でした。現在は、微粒子の大きさには連続性があり、その挙動は放出時の速度や粒径、温度・湿度・換気といった環境条件によって変化するという考え方が共有されています5)。
こうした科学的知見の変化を受けて、国内では微粒子の吸入を防ぐ対策として、従来の飛沫感染対策や空気感染対策に加え、エアロゾル感染への対策が新たに追加されています6)。対象となる感染症は主にCOVID-19ですが、陰圧空調を持つ個室への隔離は全例に必須ではなく、エアロゾル産生手技など微粒子産生量が多い場合には推奨されるという考え方になっています。ただし、このような分類の仕方や対策の内容は暫定的であり、国際的なガイドラインの改定に伴い変化する可能性があります。
知見の蓄積に伴い、感染対策の内容が変わることは珍しくありません。その際に、新しい方法を機械的に伝えるのではなく、変化の背景にある科学的根拠や議論のプロセスを示すことで、その対策の必要性や方法をより深く理解することにつながると考えられます。また、感染対策に関する推奨が更新されるプロセスを知ることは、医療専門職として情報を更新することの重要性やその方法を学ぶことにもなります。
変化する流行状況への対応
パンデミックは既知の感染症にも影響を及ぼしています。人どうしの接触機会の減少により抑えられていたさまざまな急性呼吸器感染症は、社会経済活動の活発化に伴い急増しました。インフルエンザやノロウイルス感染症といったなじみのある感染症も、流行期や規模に変化がみられています。また、受診控えによる予防接種率の低下や国際往来の再開を背景に、麻疹の報告数が増加しています。これらの感染症の中には感染性や病原性が高いものが含まれ、初期対応の遅れが患者や職員、学生への二次伝播につながるリスクがあります。これを防ぐには、症状のある受診者を早期に把握して隔離や検査につなげることが重要です。さらに、ワクチンで予防可能な疾患については、医療従事者や学生自身がワクチンにより免疫を獲得しておくことも基本的な感染対策に位置づけられます。
こうした感染症の流行パターンの変化は、医療現場の感染リスクに直接影響を与えます。市中でどのような感染症が流行しているかを把握しておくことは、自身の感染リスクを評価する上でも、患者への二次伝播を防ぐ上でも重要であり、学生のうちから意識されてよい視点といえます。具体的には、日常生活において感染予防に努めること、自身の感染症状や徴候に注意を払い、患者との接触の是非を判断すること、さらにワクチンで予防可能な疾患に対する免疫獲得を職業上の倫理的責務としてとらえること―これらは医療者に求められる行動規範の一部をなすものだと言えます。こうした認識を学生時代から育てることは、看護職としてのプロフェッショナリズムを培う上でも意味を持つと考えられます。
おわりに
感染対策に関する教育は、パラダイムシフトの只中にあります。COVID-19を契機として、知識や技術の刷新だけでなく、行動変容とその定着につながる多面的な取り組みの重要性が、医療現場でも教育の場でも改めて認識されつつあります。今後、教育機関と医療機関がこうした考え方を共有しながら連携していくことは、変化の激しい臨床現場への学生の適応を支えることにもつながるのではないでしょうか。
『基礎から学ぶ医療関連感染対策 改訂第4版』は、COVID-19から得られた教訓と最新のエビデンスを統合し、基本的対策から感染経路の考え方、新興感染症への備え、職業感染予防まで体系的に整理した一冊です。教育・指導内容を見直す際の参考資料としてご活用いただければ幸いです。
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感染対策を本格的に学べるテキスト.感染対策の基礎知識から最新の臨床実践まで網羅.今回の改訂では,新型コロナウイルス感染症の流行に伴って変化した感染経路の考え方,CDC隔離予防策ガイドライン改訂や医療環境管理に関わる法改正に伴う変更点を反映し,新興感染症への備えと対応など,大幅な加筆修正を行った.ビギナーはもちろん,専門看護師・認定看護師をめざす方,感染対策チームの医療従事者,感染管理に関わる自治体・企業関係者にも有用.患者の安全を守る医療者に必携の一冊.
・B5判、272頁、定価3,520円(本体3,200円+税)
1)Wang Y et al:Hand hygiene after the COVID-19 pandemic: Is it still at a high level? PLoS One, 2025
2)Centers for Disease Control and Prevention:Isolation Precautions Guideline.https://www.cdc.gov/infection-control/hcp/isolation-precautions/index.html (2026-04-20参照)
3)World Health Organization:Global report on infection prevention and control. 2022
4)Gruenert S, Whitaker T, School Culture Rewired: How to Define, Assess, and Transform It. 2015
5)World Health Organization:Global Technical Consultation Report on Proposed Terminology for Pathogens That Transmit Through the Air.2024
6)日本感染症学会,日本化学療法学会,日本呼吸器学会,日本環境感染学会,日本臨床微生物学会:5学会による新型コロナウイルス感染症診療の指針,2025.https://www.kansensho.or.jp/modules/topics/index.php?content_id=59(2026-04-20参照)



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