「なぜ、それをするのか。対象にとってどんな意味があるか」
これは、私が看護師として、そして現在は教員として、常に自分に問い続けている言葉である。行為の根拠を問い直すことは、対象への援助の場面だけでなく、学生指導やチーム医療の場面でも、対象を深く理解するうえで重要だと感じている。
私がこのことを強く意識するようになったきっかけは、学生時代のある出来事だった。
「見えない指先」に宿るもの
私が看護学生の頃、基礎看護学演習でシーツ交換を学ぶ機会があった。当時すでに多くの病院には看護助手が配置されており、実習に行ってもシーツ交換は看護師が日常的に担う業務ではなかった。そのため私は、シーツ交換を「将来あまりやらないかもしれない技術」として受け止めていた。当然練習にも身が入らず、まあまあな出来栄えのベッドを前に、ひとりで満足していた。
そのとき、ある教員が私のベッドを見て言った。「結果だけ帳尻合わせるんじゃ看護じゃないの。マットレスの下でどんな手の形をしてシーツを引っ張れば美しく作れるのか。見えない指先に技術の差が現れるの」「私はシーツ交換を教えているんじゃないのよ。しわ一つにまで気を配る看護の心を教えているの」。
――患者さんからは見えない指先。そこにこそ、患者さんの苦痛を和らげ、少しでも楽に過ごしてもらいたいと願う心が宿る――今思えば、教員の言葉にはこんな意味が込められていたのだろう。しかし当時の私には、思惑を見透かす教員の凄さと、机上で習う知識を演習で体験し、頭と体がつながる感覚的な喜びが強く記憶されたのみであった。
「なぜするのか」を学生とともに問い続ける
臨床を経て教員となった1年目、専門学校で基礎看護学実習を担当したとき、学生が患者に清拭を行う場面に立ち会った。学生は手順を一生懸命覚え、その通りに実践しようとしていたが、「手順通り、失敗しない」という自分よがりな目的になっているように見えた。振り返りの時間に、「今日の援助で、患者さんの表情や言葉で印象に残っていることは?」と問いかけると、学生はハッとして少し悩んだあと、こう話してくれた。
「タオルを当てたとき、少し冷たそうな表情をされていたかもしれません。でも、『このやり方で合っているか』ばかり気になっていて、本当はどう感じていらっしゃるか、ちゃんと聞けていなかったと思います」。
その言葉を聞いて、私は「いま、この学生に成長の分岐点が訪れている」と感じた。マニュアルを守ることで精一杯だった状態から、「この人にとって、これは本当に心地よい援助だったのか」と自ら問い直す段階へと足を踏み出そうとしていたからである。
その学生には「結果で帳尻合わせず、対象にとってどうか、いちいち考えて、分からなければ聞いてみて、患者さんと一緒にケアを作っていくといいね」と伝えた。
学生は患者のもとへ戻り、自分の清拭がどうだったか、率直な意見を聞いていた。自分のやりたいケアだけ済ませて満足するところから、対象に行うケアを通じて、学生も対象から教えていただく、ケアリングへと確実に一歩踏み出していた。
この時、私はあのシーツ交換の演習を思い出していた。学生のとき、恩師に教わったあの看護の心。頭(知識)と体(技術)がつながった時に、看護技術に心が宿りケアになる感覚。学生にそれを伝えていくことが大切だ。私にとっても成長の分岐点かもしれない、と考えていた。
「人は答えを見つけることで成長するのではない。疑問を持つこと、それ自体が人を成長させる」彫刻家・外尾悦郎1)
正解をただ与えられるのではなく、自分なりの疑問を持てた瞬間に、学びは深まり始める。そのきっかけを講義や演習を通して作り、実習では、その瞬間を見逃さずに気づきにつなげていくことが私の教員としての責務であると気づけた。
教員として伝えたことが、すぐに理解できなくても、いつか芽が出ることを信じている。基礎看護学演習から19年。あの時恩師が蒔いてくれた種が、私の中でもやっと芽吹いた。
AI 時代の学びと「神聖な好奇心」
近年、生成AIをはじめとした技術の発展により、わからないことはすぐに調べられる時代になった。看護技術の手順や疾患の概要、最新のエビデンスなど、多くの情報はインターネット上にあふれ、それらをAIが整理して提示してくれる。タイパもコスパも良い。実際、私自身も必要に応じてこうした技術の恩恵を受けている。
しかし、どれだけ情報が容易に手に入るようになっても、「この患者さんにとって、本当に良い選択は何だろう」と問い続ける過程は、AIに任せることはできない。生成AIは、多くの点で「答え」を教えてはくれるが、その答えを前に「本当にそうだろうか」「いま、目の前の対象にそのまま当てはめてよいのだろうか」と疑う視点こそが、看護の専門性を支えているのだと思う。
私は学生たちに、「ネットやAIから得た情報を、そのまま受け取るだけで終わらせてほしくない」と伝えている。情報を手がかりにしながら、「この人にとってはどうだろう」「自分が大切にしたい看護観と矛盾しないだろうか」と考え続けること。そのプロセスの中でこそ、ケアリングのあり方や、自分の看護観が少しずつ形を持ちはじめると感じている。
AI に負けない「愛」を
量やスピードでは、私たちはAIにかなわないかもしれない。けれど、患者の声にならない思いに気づき、沈黙の意味を想像し、わずかな表情の変化から「もしかしたら、いま不安が高まっているのかもしれない」と感じ取ろうとするまなざしは、人間だからこそ持てるものだと思う。
学生時代に恩師から教えられた「見えない指先に宿る心」は、私にとって大切な原点である。表からは見えないところに、どれだけ心を込められるか。忙しさや効率を理由に「このくらいでいいか」と妥協せず、見えないところに、自分なりのこだわりと優しさを込めるのか。その積み重ねが、看護師としての姿勢を形づくっていくのだろう。
これからの時代、AI に任せられることは、ますます増えていく。だからこそ私は、AI に頼れるところは頼りつつ、そのうえで、「AI には真似できない愛情やまなざし」を大切にしていきたいと思う。学生たちには、技術や知識を身につけるだけでなく、「なぜするのか」「この人にとって本当に良いことは何か」を問い続けることの面白さ、知る喜び、新しい視点を発見するプロセスそのものを味わってほしいと願っている。
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私にとっての「分岐点」は、学生時代のシーツ交換の演習での先生の一言から始まり、臨床での経験、そして教員として学生と向き合う現在へと連なっている。「見えない指先」に宿る技術と愛を、今度は私自身が学生たちに手渡していくこと。それが、いまの私が選び続けている道であり、「なぜするのか」を問い続ける私なりの答えの一つなのだと思う。
私が行き着いた一つの答えを、恩師と答え合わせしたいけれど、私たちの学年を最後に引退され、数年後にご病気で亡くなられた。闘病されながら最後の最後まで学生に種を蒔き続けた恩師は、最後まで教育者であった。本当に頭が上がらない。
私は教員として、出た芽の成長を模索していく。こればかりはAIでも解けない。
1)外尾悦郎:ガウディの思いを継ぐということ.MCC MAGAZINE 夕学レポート,2016
[https://www.keiomcc.com/magazine/sekigaku159/](最終確認:2026年1月14日)

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