看護教育のための情報サイト NurSHARE つながる・はじまる・ひろがる

第4回:哲学は、何のために? 補遺いろいろ

第4回:哲学は、何のために? 補遺いろいろ

2023.04.27川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

前稿に続いて、哲学に対して一般的に抱かれがちなイメージと、その実際との乖離から来る「こんなつもりじゃなかった」問題を、もう少し。

2つの「なぜ」

 もしある学生が、哲学の講義に来て、「俺は何のためにこの世に生まれてきたのか」「この世界は何のために存在しているのか」という彼自身の切迫した悩みに、目からうろこの答えが示されることを期待していたのなら、多くの優れた哲学の講義は、彼を失望させてしまうかもしれない。俺が知りたいのは、こんなことではない、と。なぜなら、哲学にとって「なぜ」という問いかけは、非常に大切なのだが、この「なぜ」には、全然異なる性質の問いが含まれているからである。ここでは、その中でも哲学的に重要と思われる2つを説明しよう。

 第一は、「どのような原因で」という意味での「なぜ」である。なぜ私は生まれてきたのかといえば、両親が出会ったからであり、なぜこの宇宙が生まれたのかという答えの1つがビッグバン理論である。これは、因果関係の観点からものごとを考える機械論・メカニズムの分析である。第二は、「どのような目的で」という意味での「なぜ」である。何のために私は生まれてきたのかという問いへの私自身の答えは、コロコロと変わるのだが、さしあたり法哲学を道具に自分を磨き、人に貢献するためと言える。何のために世界があるのかは、これもまた、世界の状況次第で頻繁に変容するだろうし、宇宙には存在目的があるのか、疑わしい。ともかく、目的と手段の関係の観点から「なぜ」を問うのが、目的論である。

 上記の学生は、自身の実存を懸けた目的論的な問いに、根源的で確固とした究極の答えを示すことを哲学に期待したのであろう。確かに、そのような哲学もある。著名なところでは、アリストテレスの目的論などは、人生の意義・世界の存在意義に、運命的に決定された答えを示している。しかし、彼は古代の人間である。近代の哲学においては、そのすべてではないが、多くの議論が、根源的な目的を決定的で究極的な形では示さない。

 何のために生きるのかは、とりわけ自由主義的な社会においては、信仰の自由・思想信条の自由や職業選択の自由の名のもとに個人の問題とされ、他人がとやかくいうべきものではない。また、社会の目的についてもその時代の環境に合わせて決まるものであって、先験的に、前もって決定されるものではないし、せいぜい功利主義の言う社会全体の福祉の最大化のように抽象的かつ形而下的(つまり究極的・根源的ではなく世俗的)な形で示すことができるくらいである。

 2つの「なぜ」のどちらでものごとを考える傾向を持つかは、非常に個人差や文脈差が大きいが、ごくごく一般化すれば、若いうちは目的論的な問いを深刻に考えがちなのに対し、大人になれば機械論的な発想になじむことが多いような気がしている。1人の人間の精神の発展と同様に、人類全体の精神史においても、まだ哲学が青臭かった古代から中世において目的論が盛んであったのに対し、近代はそのような青春の多感さを失っているのかもしれない。だとすると、若い感性を持つ学徒のリクエストに、最新の老いた知識が応えられないのも、ある意味で自然なことかもしれない。

 哲学は、自然科学の多くの分野とは異なり、イノベーションによって古い知識をより優れた新しい知識に改善するという試みに乏しい。二千年間、同じことを繰り返しているだけなので、悪く言えば進歩がないのだが、よく言えばそれだけ時流を超えた人間の本質を考えているということになる。優れた哲学は決して古びない、消費期限のないものなので、上記の不満を解決するためには、目的論に厚い古典的な哲学に触れてみることも良いだろう。

本当に大切なことの数は少ない

 前回「裸の王様」の子供になぞらえて、哲学は、枝葉末節の現象の多様性に惑わされることなく、本質を見抜こうとすると述べたが、そのような本質的な問題は、勉強すればするほど少ないということが分かってくる。具体的な研究テーマを、何にするかということは、駆け出しの研究者にとっては重大な問題かもしれないが、どのテーマから入っても、掘り進めていけば、結局出口は同じだったということがある。逆に、同じ出口に到達しなければ、問題の設定が本質に触れていなかったということになる。本質に触れる問題であれば、どんな具体的な問題を選ぶかは重要ではない。外科であろうが内科であろうが、法律であろうが音楽であろうが、その道を極めた人が言うことは、似通っていたりする。

 要するに、本当に大切な問題の数は少ないということだが、これは、そのような問題に出くわす頻度や分量が少ないということではなく、種類が少ないという意味である。たとえば、哲学において意味のある重要性を持つ多くの問題に共通している論点として、第2回で紹介した、主観的観点と客観的観点の対比を挙げる議論がある 。これは確かに本質的に重要な論点の代表的な一例だろう。しかし、ここで厄介なのは、本質に触れる議論の多くが、一見してそうであると見分けることが難しく、些細で表面的な議論に埋もれてしまいがちだという点である。ここで挙げた主観と客観も日常的に使われる言葉で、そこまで特別感がある用語ではない。しかし、哲学者は、その何でもない言葉で、世界の本質をなす概念を指し示している。気づきにくいのだが、それは人間の根源を表現している結晶である。路傍の石と見分けのつかない世にも貴(あて)なる宝石なのである。

 しかし、一方でそのような希少な存在であると同時に、他方でそれは、世界のすべてを説明できる普遍性を持つものである。そのような普遍性・遍在性ゆえに、哲学的問題は24時間365日、あなたのそばにある。

 このように、哲学者とは、世界で最も貴重で、同時に最もありふれた存在に魅入られた者である。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「鏡と仮面」の詩人が、彫琢(ちょうたく)の果てにたどり着いた、たった1行の詩で、世界を根本的に変えてしまったように、濃密な力を秘めた宝石を、哲学者はいつの日も探し求めているのである。

* * *

 さて、哲学をめぐる一般論はここでしばらくお休みにして、次回からはいよいよ看護の倫理原則の中身について議論していきたい。


1発展というと、進歩・改善しているようにも聞こえるが、私は進歩史観を取らないので、目的論と機械論のどちらが優れているとは言わない。単に一方が他方より後に隆盛するというだけである。

2Thomas Nagel:Subjective and Objective.Mortal Questions,p.196,Cambridge University Press,1979/トマス・ネーゲル著,永井均訳:主観的と客観的.コウモリであるとはどのようなことか,p.306,勁草書房,1989年

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

フリーイラスト

登録可能数の上限を超えたため、お気に入りを登録できません。
他のコンテンツのお気に入りを解除した後、再度お試しください。