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第3回:哲学は、何のために?

第3回:哲学は、何のために?

2023.03.23川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 倫理的な葛藤に直面したときに、わたしたちは、何らかの決断を下さなくてはならないし、実際に日々、下している。それは、どのような方法でなされている、あるいはなされるべきだろうか。答えに到達する方法について、今回は考えてみたい。

教室と現場

 前稿の最後に、哲学は、学説を列挙するだけで、肝心の答えを示してくれないというフラストレーションに言及したが、答えを見つけ出すための道具としての哲学の性能を考えることは、そもそも哲学とはどんな性質のものなのか、それは何のためにあるのかを考えることにもつながる。 

 いきなり結論から始めよう。私の見る限り、哲学は、問いは提示するが、答えは提示しない。確かに俗流の哲学には「これが人生の答えだ!」式の議論もあるだろうが、ソクラテスの問答法がそうであったように、本来の真摯な哲学は、今まで気づいていなかった、考えたこともなかったような重要な問題に、新たな視野を広げるものである。答えを教えてもらえないフラストレーションよりも、答えはなくとも見晴らしの良い高台に立った爽快感を覚えるのなら、あなたは哲学に向いている。 

 答えが、哲学、つまり抽象的な一般理論の内部にはないのだとすれば、それはどこにあるのか。それは、その真逆の場所、つまり具体的なケースの中にある。答えは、教室ではなく、現場にある。

 座学の演習で、優秀な学生たちに法律の問題について議論させると、さすがに緻密な議論を展開するのだが、その結論には、どこかリアルな迫力が欠けていることが多い。それは、学生の能力が不足しているからではなく、現場の知識に基づいていないからである。具体的なケースの生の現実に直接触れれば、小難しい理論的知識などなくとも、意外なほど容易に、倫理的な葛藤に妥当な答えを示すことができることが多い。それは、第一に、机上の空論は、どれほど緻密な理論のつもりでも、生の現実が持つ膨大な情報量には勝てないからであり、第二に、倫理的・規範的、さらには法的・政治的な判断は、厳格な数式や論理式の操作によりなされる理論知に基づくものというよりは、熟練の職人の経験に裏打ちされたコツのような実践知、数字や言語や論理では表現できない暗黙知によるところが大きいからである。

 では、理論や哲学には、存在意義がないかと言えば、決してそうではない。現場の実践・実務が苦手なこと、つまり冷静に大所高所から問いを立て、私たちが考えるべき本当に重要な問題のありかを示すのは、哲学の十八番である。現場では、その忙しさから、多くの倫理的に重要な判断が流れ作業で行われ(制度化され、流れるように行われているからと言って、決して粗雑になされているということではない)、まさかその判断がこれほど重要な倫理的意義を帯びていたとは気がつかないほどである。そのような時でも、忙中閑あり、現場の実務家が教室を訪れて、自分が日々下している判断が、いかに重要なものであったのか、どういう点に気をつけて判断をすればよいのかについて、思いを新たにしていただければ、理論の担当者としては、望外の喜びである。

非常識のススメ 

 要するに、哲学の意義は、人々が本当は考えるべきであることを考えず、悩むに値しないことに悩んでいるときに、真に重要な問題点を示すことである。この意味で、現場の実践や実務が常識の領域に属するのに対し、理論や哲学は懐疑の領域にある。童話「裸の王様」の子供の態度こそが哲学者の態度であり、王が金襴緞子1を纏っているという常識の噓を喝破し、真実を指摘するのである。これは、単に常識の逆張りをすればよいという簡単な話ではない。哲学者は、天邪鬼に見られることもあるが、そうではない。たとえば王の尊厳のように重要なことがらにつき、本来あるべき姿からの逸脱があるときに、その的を絞って、本質を射抜くのである。

 だから、優れた哲学者であるためには、何が本質的・根源的に重要な問題であるのかを見通す力が必要になる。さもなくば、ただの空気が読めないクレーマーなのであるが、その違いが分からない民衆によって、ソクラテスは処刑されてしまった。

 ともかく、哲学には非常識なところがあり、それゆえに人を怒らせることが多々あるのだが、あくまでもそれは子供のように純真な思考実験にすぎないということを忘れずに、もしそれが社会の改善に役立ちそうだと思った時にだけ、大人の行政的実務に試しに採用してみればよいのである。

有事の劇薬

 哲学が、社会の改善に役立ちそうな時とは、おそらく改善などと悠長なことを言っている余裕もないほど、既存の常識が通用しなくなった時、つまり社会の存亡を賭けて常識を一変させる必要に迫られた緊急事態であるだろう。そういう時には、哲学者に社会からお呼びがかかるのだが、普段はそんなことはない。平時においては、何も好んで常識に抵抗する社会的必要はない。

 哲学は、そのような抵抗が知的に刺激的だと言って特殊な快感を求める変わり者だけが興じる秘儀のようなものに見えるかもしれない。このように見れば、傍目には子供じみた空想で遊んでいるだけの哲学者に、貴重な社会的資源の予算を割り当てるのは、無駄のようにも思われがちなのだが、兵を養うこと千日、用は一朝に在り、いざという時には頼りになる存在なのだから、平素の修養と鍛錬を怠ってはいけない。平素から哲学的思考の腕を磨いておくべきなのは、プロの哲学者に限らず、いざ有事という時に、常識を見直す判断を求められる全ての者である。なので、実は社会に責任のある大人こそ哲学を学ばなくてはならない。

 ちなみに、哲学を兵と喩えたが、哲学は人畜無害な思考遊戯に留まらない。実際の武器がそうであるように、その力ゆえに、それは極めて有用であると同時に、極めて危険である。比喩でも何でもなく、哲学は、間接的にではあるが、非常に多くの人間を殺してきた。哲学は、劇薬である。取扱注意の巨砲である。

 哲学の意義というこの問題、まだ語り足りないところがあるので、次回、もう少しだけ続けたい。  


金襴緞子(きんらんどんす)…高価な織物や衣服を指す。            

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

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