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第15回:フェア・トレードの作法

第15回:フェア・トレードの作法

2024.03.28川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 第1回でも述べたように、私たちの人生は、その一挙手一投足が選択と決断である。自分の進路として看護師を選択すること、看護師として患者への介入の方法について判断し選択すること、これらに限らず、あらゆる選択は、何かを取って、その代わりに何かをあきらめることである。それは、その選択の結果として実現される福利と、その結果あきらめることになる福利とを、交換することであるとも言える。そして今回は、そのような交換を、特に他者との間で行う場合の問題について考えたい。いずれ「正義」の議論の中でも触れるが、他者との関係には、「公平性」が問われることになる。つまり、私たちは、他者との関係で、日々、何かを交換しているのだが、どのような方法で交換すれば、それは公平・公正であると言えるだろうか。

 高野史緒「ヴェネツィアの恋人」において、ヴィオレッタとアンドレアスは、何度も時空を超えながら転生し、一夜の思い出の恋人との出会いと別れを繰り返す。また恋人と会うために、そのつど彼らが訪れるのは、妖気ただよう女占い師である。占い師彼らの悲願を叶える代わりに要求する交換条件は、次の人生、その時間と情熱のすべてを芸術だけのために捧げることである。脚と引き換えに自らの声を差し出す人魚姫のような悲劇が、永久に繰り返される。

 そこに弁護士を登場させるのは野暮の極みだが、このような交換の契約は、果たして公正に適っていると言えるだろうか。福利の交換が公正であると言えるための条件を、決して網羅的で十分なものではなく、あくまで例示としてではあるが、3つ紹介しよう。

時間の近さ

 第一は、交換される福利が実現される時点が、近くないといけない、という条件である。30年後に重篤な副作用が見込まれるが、それへの参加と交換に、今1万円が支払われるという危険な治験バイトへの被験者の募集は、公正に悖(もと)ると感じる者も多いだろうが、それはなぜだろうか。人間は、遠い将来のことを、近い将来よりも、軽く評価しがちである。そのこと自体は、不自然でも不公正でもなく、だからこそ、様々な交換に利子というものが成立する。

 しかし、これも度を過ぎると、道理を失う。差し迫って何か(たとえば金銭)が必要な者は、それについての目先のわずかな利得を得るために、将来の大切な別の価値あるもの(たとえば健康)を引き渡してしまうかもしれない。短期的には合理的で、仕方のない判断だとしても、将来のことを考える余裕を失くしているというのは、やはり健全な状態ではない。これを避けるためには、交換される物同士が、当事者に享受される時点が、全く同時点とまではいかなくても、できるだけ近くにあるほうが好ましい。

 具体的に、どれくらいの利率・時間割引率までが許容可能なのか、あるいは交換される物が享受される時間のズレはどれくらいまでなら許容可能なのかは、社会の文化や個別のケースによって、個別具体的に判断されるべきであり、利息制限法1や各種の消費者法が取り組んでいる問題である。

性質の近さ 

 次に考えたいのは、交換される福利の性質の近さである。先の治験バイトも、金銭と健康を交換していたが、他にも実際にあった、公正さを疑われる例は、売血である。身体を切り売りすることも、多くの者が倫理的拒否感を抱くだろう。通約不可能な複数の価値の間で交換するとき、譲り渡した物の価値は、得た物の価値によっては、決して補償されない。だからと言って、異なる性質の物を絶対に交換してはいけないということではないのだが、そのような交換をする際には、より慎重に検討できるような仕組みを用意するべきだということである。

 逆に言えば、性質が近い物同士の交換は、より手軽でスピーディーに行えるようにすべきである。おにぎりと100円玉は、どちらも代替可能性の高い経済財であるから、気軽に交換できるべきだし、治験であっても、交通費や日当の支払いは、失われた経済的な財を、同一または近い性質の財で補償するものだから問題がない。

取引能力の近さ

 最後が、交換をする当事者の間の取引能力に、大きな格差がないようにするという点である。ある意味で、これが最も重要な点であり、時間や性質の近さに関する先の議論が言いたかったことも、要するに、ここに帰着する。取引能力とは、交換の交渉をする際の、立場の強さのことである。立場の強い者が、立場の弱い者の足元を見て、それにつけこみ、搾取するようなことがあってはならない。危険な治験バイトや売血や、人魚姫のように声と脚の交換に手を出す者は、切羽詰まって立場が弱いために、長期的な合理性を犠牲にして短期的な合理性に走り、余裕のある者による長期的な搾取の企みの犠牲になるのである。

 立場の強さと弱さの現れ方は、多様である。常にというわけではないが、多くの場合、使用者より労働者、教師より学生、医療従事者より患者のほうが、立場が弱い。その原因は、 経済力・権力・情報や知識の量などの格差である。このような取引能力に、交換の当事者間で格差があること自体は、ある意味で自然なことであり、仕方がない。大切なのは、強い者が、その強さを利用して、弱い者に長期的に合理的な選択肢を放棄させることを、許容しないということである。つまり、フェア・トレードのためには、権力者ほど腰が低くなければならないということである。

***

 今回の議論は、複数の人間が、その福利(をもたらす資源や条件)を交換するときの、当事者間の関係の公平性に関わるものであった。では、当事者同士が、公平な関係で交換を行うとして、それは、どんな内容の交換でも良いのか、という問題もある。たとえば、普通に生きていくのに必要な程度を、はるかに超えて、異常に福利を増進すること、あるいは福利のあり方を根本的に変容させるほどに生命の仕組みを操作すること、このような試みに関わる倫理的な問題について、次回考えたい。


金銭貸借における利息の最高利率を定めており、それを超える部分の契約は無効となる。現在、元本10万円未満の場合の最高利率は、年2割である。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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