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第9回:時を超えた約束

第9回:時を超えた約束

2023.09.28川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 前回までの、パターナリズムの議論で、お読みいただいた多くの方は、介入する者が、介入される者とは別の者(親とか学校とか上司とか国家など)であると想定したのではないだろうか。それで間違いではないのだが、しかしそれに限定されるものでもない。自分が自分に対して父権主義的に介入することもありうるのである。

あらかじめ自分を拘束する―プリコミットメント

 プリコミットメントという考え方がある。『オデュッセイア』で、セイレーンの前を漕ぎ行くオデュッセウスは、部下に自らをマストに固く縛めさせ、自分が何を言っても決して縄を解かぬよう命じた。果たして、美しい歌の誘惑に乱心したオデュッセウスは、魔物の許へ行こうと暴れたが、部下は彼の命を忠実に守り、彼らは見事に生還を遂げた。

 将来の自分に、十分な自律能力が失われていることが見込まれるとき、そのような自分が暴挙に出て自他を傷つけることがないように、まだ自律能力・理性が健在である現在の自分が、あらかじめ将来の自分の自由に制約を課す、というのがプリコミットメントである。目の黒いうちに、問題を片づけておくために、自律能力の十分な現在の自分が、自律能力の不十分な将来の自分に対して、パターナリスティックに介入するのである。法律学では、憲法改正の限界の論拠に用いられることがあるが、看護におけるACPの一部にも通じる考え方であるだろう。

時を超えた人格の同一性

 このように、将来の自分の自由を制限する現在の自由を、どこまで認めるべきか、であるが、自由主義者は個人主義者でもあるので、自分個人のみを拘束するのは構わないが、他人を拘束するには、よほどの理由が必要であると考えるのが、原則である。しかし、問題はそれほど単純ではない。

 そもそも、自分とは何なのか。時を経て、ある人間が同じ人物であり続けることは、どのようにして可能なのか。私たちは、毎日、盛んに新陳代謝しているから、ある程度の期間を経ると、分子レベルで物質的には、すっかり入れ替わっている。精神的にも、毎日、多くのことを経験し、同時に多くのことを忘れていっている。昨日と今日とでは、入れ替わった部分が少ないので、違いが分かりにくいが、10年ぶりに再会した人が、全く別人になっていることはよくある。同一性の指標として、名前とか、戸籍等に示される法的地位は、おそらく私たちが最も長く保持し続けるものの1つであるが、これは、むしろ同一性の保持を目的として作られた制度的な擬制(フィクション)とも考えられる。

 そうすると、魂のような不変の実体というものでも想定しない限り、通時的な人格的同一性は、幻想にすぎず、私たちの人格は、常に少しずつ変化し続けているということになる。実証できない魂のようなものは、少なくとも学問的な根拠にはできないので、やはり私たちの人格は日々変化し、ある程度の時間的隔たりがあれば、同一の固有名詞で指し示されているとしても、他人として考えるべきなのかもしれない。

 では、仮に遠い将来の自分は他人なのだとすると、個人主義者である自由主義者は、どうして他人である将来の自分を、現在の自分が、好き勝手に拘束して良いなどと言えるだろうか。

奴隷契約は、どこまで許されるか

 このような人格の非同一性を、厳密に考えると、たとえ今日と明日という短期間であっても、ほんの少しだが人格は変化している、つまり今日と明日では完全に同一人物とは言えないということになるので、個人主義者としては、なぜ今日の私が明日の私の自由を奪うような約束を結ぶことができるのかを説明する理由が、よく分からなくなる。

 しかし、このような厳密な考えを固持すれば、社会が立ち行かなくなることは明白である。「昨日約束したのは、別の人格であり、私ではないのだから、私はそれを守る義理はない」と言えてしまうのであれば、契約も結婚もあったものではない。やはり常識的には、時を超えて拘束力を保持する約束・コミットメントを認めなくてはならない。

 では逆に、時を超えた拘束を認めるべきではない場合はあるだろうか。今日の私が、明日の私の自由を、著しく重大な程度、取り消しのできない方法で制限することは、許されるべきなのだろうか。これは、要するに、奴隷契約が許されるかという問題である。奴隷契約と言うと、語感が強すぎるが、敢えて極端な例で思考を喚起するのが、哲学である。

 程度としてはより穏当であるが、本質的な構造は奴隷契約と同じであるのが、私たちの多くもその当事者になっている労働契約である。労働契約は、金銭と引き換えに自由な時間を放棄するものであり、紛うことなく、契約時の自分が以後の自分を拘束するものである。しかし、もちろん労働は、社会に不可欠なものであって、この契約を無条件に不道徳なものと考えるべきではない。もちろん、労働者は、しばしば使用者よりも取引能力に劣る(立場が弱い)ので、民法の通常の契約とは異なり、労働者を保護するための制約は厚くあるべきである。しかし、そのような制約条件さえ満たせば、奴隷的という表現の是非はともかく、高額の報酬と引き換えに、将来の多大な自由を引き渡したり、心身を酷使したりする労働契約であっても、合理的なものでありうる。

 ただ、繰り返しになるが、人間は誰しも、その意志や理性において、弱いものである。現在の自分は、将来の自分よりも、自律能力が十分だと言ったところで、現在の自分も、神のように完璧な理性と意志の能力を備えているわけではない。やはり、あらゆる時点の自分にも、将来の自分の自由を重大に制限する自由を認めることには、慎重であらざるを得ない。

* * *

 まとめると、私たちの人格も約束の拘束力も、不変のものではなく、時と共に移ろいゆくものと考えるべきであろう。私自身は、比較的、保守主義的な考え方なので、あまりに朝令暮改だと、社会の安定性が損なわれることを懸念するが、とはいえ、何事も永遠ではない。法律も、民事・刑事共に、各種の時効の制度を置いている。契約であろうと、インフォームド・コンセントであろうと、一度固まった約束の結び目は、時の流れの中で、少しずつ緩んでいくのである。


日本の護憲派の主張として、特に平和主義について、戦争の惨禍を経験した、要するに「理性や自律能力に長けた」世代は、憲法のルール(ここでは第9条)を作る権力を有するべきだが、以後の世代は、その経験を忘れ、能力に劣っているはずだから、そのルールを変更する権力を有するべきではない、というものがある。

Derek Parfit, Reasons and Persons, Oxford University Press, 1984, Part 3.森村進訳『理由と人格』勁草書房、1998年、第Ⅲ部

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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