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第8回:驕慢なお節介、それがなぜ許されるのか

第8回:驕慢なお節介、それがなぜ許されるのか

2023.08.31川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 私は二輪車で見果てぬ土地を駆けることを愛しているのだが、それが現代の日本であれば、美しい光景にどれほどうっとりしていても、ヘルメットの着用は忘れてはならない。理由は、もちろん私自身の身の安全を守るためであり、そのために髪に風を感じながら走る自由は制限されている。これが、本人の利益保護を根拠にその自由を制限する、パターナリズム(父権的干渉主義/介入主義)の典型例であるが、自由主義者は、どのような条件であれば、パターナリズムを許容できるか、考えてみたい。

自由主義(リベラリズム)と介入主義(パターナリズム)の境界線としての自律能力

 無鉄砲な者が、愚行とも思える危険を冒そうとしているとき、自由主義者の態度としては、放任するのが原則となる。失敗して痛い目を見るのも勉強のうちであるし、他人がとやかく言っても逆効果で、かえって意固地になるだろうから、何でも自己責任でやらせておくのが良いというのである。何が自身の利益になる行為であるかを一番よく分かっているのは外ならぬ本人であるし、一見すると愚かに見える行為であろうと本人のいわば特殊な価値観に基づく真剣で慎重な企てかもしれないので、上から目線の驕慢(きょうまん)なお節介はせずに、まずは見守ろう、という精神が、この背景にはある。

 他方で、放っておいては、取り返しのつかないほどの大損害が生じそうなときは、破滅へと盲目的に突き進む者を無理にでも止めるべきかもしれない。それは、被介入者の自由の制限を伴うので、自由主義者は、原則を覆して介入する際には、それなりの根拠を準備しようとする。

 その最も有力な根拠は、被介入者の自律能力(あるいはその能力に基づいた、介入への同意)の有無である。復習すると、自律能力とは、自身が本当に実現したい価値観について、慎重に検討し、その実現に向けて自身の行動を計画・実践していく能力のことである。そして、このような自律能力を十分に有している者に対しては、自由主義の原則通り、自己責任・自己決定に任せ、それが十分ではない者に対しては、自由主義を妥協して、パターナリスティックな介入を発動すべき、と考えるのである。より正確に言えば、自律能力が十分ではない者は、そもそも自律的に行動できていないのだから、介入したところで、自由を制限していることにはならないので、自由主義を妥協しているわけではないとも考えられる。

 パターナリズムの制度的な具体例としては、民法における未成年者や成年被後見人 の行為能力の制限が典型であるが、このような社会制度に限らず、パターナリズムは日常にもあふれている。たとえば、私の娘が長じて配偶者の候補として、とんでもない相手を連れてきたときに、もし私が介入主義者であれば、お前の幸せのためだから止めておきなさいと言うところ、もし私が自由主義者であれば、娘のその時点での自律能力について評価するだろう。

自律能力の有無を考慮しないこともある(強いパターナリズムと弱いパターナリズム)

 また、自律能力の有無は、リベラリズムとパターナリズムの境界線を、常に画するものではない。自律能力が十分であっても、依然として介入がなされることもある。冒頭のヘルメットや自動車運転時に要求されるシートベルトの着用は、被介入者に十分な自律能力があるかないかに関わりなく、強制されるものである。このようなパターナリズムは、強いパターナリズムと言える。ヘルメットについては、私が十分な自律能力を持ちながら,依然としてそれを着用しないと決意した場合でも,ヘルメット無しで二輪車を運転する法的な自由はない。この意味で、強いパターナリズムは、自由主義と対立する可能性がある。

 それに対して、自律能力が十分ではない者にのみ介入するのは、弱いパターナリズムである。これは、介入しても、そもそも本人に自律能力が十分ではないので、自由の侵害の恐れがないから、自由主義との対立もないということになる。

 ともかく、自律能力の有無は、常に自由主義と介入主義の分水嶺になるとは限らないのである。

自律能力の十分性を判定するさまざまな基準

 とはいえ、多くの場合、自律能力の有無が重要な考慮事項であることは間違いない。では、ある場面である人の自律能力が十分であるか否かを判定する基準は、どのようなものであるべきだろうか。

 第一に、基準線の所在は、当該問題の性質によって、変化しうる。遂行が容易な、あるいは危険性の少ない事柄であれば、それほど高い自律能力は要求されない。成年被後見人でも、日用品の購入は、法律上、有効に行うことができる。それに対して、遂行に複雑な思考を要する、あるいは危険性の高い事柄であれば、自由と自己責任よりも、保護と制約が優先される。周知のように、公職の選挙での投票や法律上の婚姻は18歳、普通自動二輪車免許の取得は16歳からである。

 第二に、基準を一律に定めて、ある個人がある時点でその条件を満たしているかどうかは、形式的にのみ判定するという方法と、ケースバイケースで個別具体的に判定するという方法がある。前者の例は婚姻であり、満18歳になれば、私の娘が実際に自分の伴侶を理性的に選ぶ自律能力があるかないかに関わりなく、彼女は法律上結婚することができる。後者の例は、成年後見の審判であり、たとえば認知症や精神疾患のある特定の個人が、現時点で、詐欺や強迫の被害にあうことなく法律上の行為をするのに十分な自律能力があるかどうかが、慎重にケース毎に判断される。一律の年齢基準と、試験とを組み合わせている運転免許は、中間的な方法だろう。どの方法が好ましいかは、ここでも問題の性質に依存しており、ケース数が膨大で、保護よりも自由な活動やスピーディな判定の要請が強い事柄については、一律の基準の方法、ケース数が比較的少なく、自由より保護や慎重な判定が求められる事柄については、個別判定の方法が望ましいだろう。

 このあたりのバランスは、政策的な問題であるので、どのようなときにどのような介入が許容される、あるいは要求されるのかを、一概に言うことは難しい。しかし、少なくとも、自律能力の有無の判定の正確さ・信頼可能性の問題や、パターナリスティックな介入は被介入者を一人前の人間扱いしていないという問題などに鑑み、できる限り介入の発動を抑制するのが、自由主義の基本であるということくらいは、はっきりと言えよう。


意思表示をする能力が低い者を、家庭裁判所の審判によって被後見人とし、後見人が代理等によって、被後見人の法律行為(契約等)の支援を行う、民法上の制度がある。

パターナリズムの問題に限らず、正常と異常の判定は、常に政治的である。その最たる例が、錯乱を理由に廃された王であり、ルートヴィッヒ狂王や徳川駿河大納言などは、ある意味で、その犠牲者と言える。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

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