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第7回:自由は、どこまで認められるべきなのか

第7回:自由は、どこまで認められるべきなのか

2023.07.27川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 前回まで、自由の概念分析を試みてきたが、自由がどういう概念であるか、ある程度イメージできたとして、では個人の自由をできるだけ幅広く尊重しようとする自由主義(リベラリズム)は、どのような主張をする思想なのかを考えよう。

自由主義の基本的な考え方-危害原理

 いかな自由主義者といえども、何をやっても良いと主張する者は、まずいない。テロ行為で多くの無辜(むこ)の人を殺したり、インターネット上の讒言(ざんげん)で人の名誉や尊厳を公開で傷つけたりする自由は、許すべきではない。自由主義者も、そのような行為は、国家が法律によって強制的に取り締まってよいと考えるわけだが、問題は、いかなる自由を許容し、いかなる自由を規制すべきか、である。ジョン・スチュアート・ミルの危害原理は、個人の自由を取り締まってよい唯一の場合とは、その自由な行為が他者に危害を与えるときであるとする。要するに、他者を傷つける自由は認めることはできないが、逆に他者を傷つけさえしなければ、たとえ一見するとどんなに馬鹿げたことであっても、何をしようと自由なのである。

 これが自由主義の基本であり、この考え方自体に異を唱える自由主義者はあまりいないが、その解釈をめぐっては、大いに論争の余地がある。

 第一に、何が法律による強制的な規制に値する「危害」に相当するのか、が問題になる。明白に危害に相当する、あるいは明白に相当しないケースだと話は簡単なのだが、難しいケースもある。たとえば、人の日記帳を本人の許可なく盗み見るのは、どうだろうか。状況によって、危害になる場合も、ならない場合もあるかもしれない。

 第二に、個人の自由に委ねられる問題とは、個人的な問題に限られるのだが、この個人的な問題とは、何なのかについて争いがある。私が、今夜の晩酌の銘柄を何にするか、どのような神を信じるか、どのような政党を支持するかは、少なくとも現代の日本においては、明白に個人の問題であり、他人がとやかく言うべきものではなく、個人が自らの一存のみで決すべきである。それに対し、日本国憲法第96条を改正するかどうかや、次回の国際学会の開催国をどこにするかは、明白に集団の問題であるから、民主的な、あるいは独裁的な、方法はいろいろあるが、ともかく集団的な意思決定がなされるべきである。しかし、ここでも、私的・個人的な問題なのか、公的・集団的な問題なのか、明白ではないケースが存在する。公私の境界線の所在は、たいへん重要な問題なので、これについては稿を改めて、いずれ論じたい。

自由をどこまで認めるべきかについての3つの立場

 ともかく、個人的な問題については、他者を傷つけない限り、何をやっても良いというのが、危害原理に基づく自由主義の基本的な考え方である。これよりも、やや個人の自由を抑制する方向に偏った原理が、不快原理である。これによれば、たとえ他者に危害を加えていなくても、他者を単に不愉快にさせただけで、そのような行為をした者は制裁を受ける、あるいは事前に法律によって強制的に禁止されるべきである。

 よく挙げられる例は、ポルノグラフィや売買春の法的規制の是非である。あるいは、かつての欧州では、同性愛行為の法的規制の是非であった。ポルノグラフィや売買春は、場合によっては人を害する可能性もあるとはいえ、とりあえず誰も明確に傷つけることはないが、仮に多くの人がそれを不愉快に思っているとしよう。危害原理によれば、誰も傷つけていないのだから、それぞれ表現の自由と契約の自由・経済活動の自由は、厚く保護されるべきである。それに対して、不快原理に基づけば、これらにも法的な規制を敷くべきである。

 さらに、これよりもなお個人の自由を強く制約する立場になれば、ある種の道徳主義(モラリズム)が現れる。これによれば、ある行為は、たとえ誰も傷つけなくても、さらにたとえ誰も不愉快にすることさえなくても、何らかの道徳的理由ゆえに法的に規制されるべきである。たとえば、同性愛行為は、誰も見ていない二人だけの秘密であったとしても(つまり、誰も傷つけず、かつ誰も不愉快にさせないとしても)、ソドムとゴモラを滅ぼした天の火によって罰せられるのである。あるいは、売春は、たとえ誰を傷つけなくても、さらには誰が気に留めなくても、依然としてけしからん、というのが道徳主義である。以上をまとめると、下図のようになる。

 

パターナリズム登場

 では次に、少し異なる問題を考えよう。危害原理は、「他者」を傷つける自由を禁止する。それでは、自分自身を傷つけることは、どうだろうか。危害原理が指摘しているのは、あくまでも他者への危害であるから、これを忠実に守るなら、自由主義は、自身を傷つける自由を認めることになる。愚かな行為で失敗するのも自己責任というわけである。

 しかしここでも、自由と自己責任の尊重に徹して、すべてのことについて個人に放任するべしという態度は、極端に過ぎるのであり、愚かな行為で自身を傷つけようとしている人には、たとえお節介と言われようと、事前に介入して、被害の生じるのを阻止することが望ましい場合もある、との考え方もありえよう。そこで、リベラリズム(自由主義)と、パターナリズム(父権的干渉主義)とを対比させてみたい。

 パターナリズムとは、被干渉者自身の利益の保護を根拠として、その者の自由を制限することである。あなたのためなんだから、私の言うことを聴きなさい、というものである。「父権的」という名称は、このように真摯な親心的お節介というニュアンスを示している。

 では、このようなパターナリズムを、どのような場合に認めるべきであるかを、次回に考えてみたい。


John Stuart Mill, On Liberty, p.11,Bibliologica Press, 2021/塩尻公明・木村健康訳『自由論』岩波文庫、1971年、24頁

旧約聖書・創世記の記述では、人々の不自然な性行為への耽溺ゆえに、ヤハウェの裁きによって、都市ソドムとゴモラは滅亡した。同性愛行為を指すソドミーの語源。近代に至るまで、少なくない西欧社会が、これを法律上の犯罪としていたのであり、「ドリアン・グレイの肖像」や「サロメ」で知られるオスカー・ワイルドも懲役刑の判決を受けている。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

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